番外編

□手に入らない
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もぐもぐとクレープをほおばる姿、頬を赤らめながら歌う姿。素直に、愛おしさを覚える。こんな東野をアイツは、知っているのだろうか。

あの時、木場に打たれた僕を待っていたのは、生ぬるい、うすっぺらい言葉たちと、変わってしまった人たちだった。お前はよくやった。点取ってやれなくて、ごめんな。ここまで来れたのは、猪狩のおかげだよ。ありがとう。泣きながら、そんなことを言われても、何も感じなかった。
言えばいいじゃないか。僕が、僕が、打たれなければって。天才なんて言われているけれど、大したことないんだって。1年のくせにって。

何も言えずに、帰宅すれば、父さんのよそよそしい声。おかえり、ご飯食べるか?なんて。いや、今思えば、気を遣っていただけだろう。進ですら、何か僕に言いたげな顔をしつつ、口だけは噤んでいた。
学校でも、試合のことはロクに騒がれなかった。いや、騒がないようにしているのだろう。勝てば、初戦だろうと盛り上がるくせに。そのせいか、クラスでも自ら僕にふれ回る者はいなかった。
部活も行く気になれず、学校が終われば、すぐに自宅の練習場にこもった。何球投げたかわからないほど、無我夢中で投げた。……頭の中は、あの一球が支配していたのだけれど。とにかく投げれば、消えてくれるだろう。けど、そんなことはなかった。

試合から一週間経っても、消える気配はなかった。そんな時、東野が僕を無理矢理でも、外につれだした。それは、僕に対してだれもしなかったこと。彼女は、簡単にやってのけた。自分から、僕の手を引き、クレープを食べ、カラオケに行く。そのくせ、僕が手を伸ばせば、頬を赤らめ、目をそらせる。
当たり前の、東野の姿が嬉しかった。口を開かず、保身に徹することを心配している、なんて思えなかった僕に、一番欲しいものをくれた。自然と、なにに苦しんでいたんだ。消そうとしなくたっていいじゃないか。また努力しなおそう。そう思えていて。自分が考えていたことなんて、案外ちっぽけなものだったのかもしれない。
彼女といること、それにとても安らぎを感じた。これが心地よかったから、忘れていた。ふっと、現実に戻される。目の前には、落ち葉のような枯れた笑みを散らす東野。そう、忘れていたんだ。コップに入りきらなかったようにちいさく流れる露、彼女は、それに気づいているのだろうか。放っておけない。誰に言うでもなく正当化して、東野をそっと腕に招いた。遊びでやったあの時とは、ほんのすこしも重ならなかった。遊びでもなくなってしまったからだろう。体温を感じながら、彼女がながす涙だけ取り払えたら、どんなにいいだろうかと思った。どこまでも、あの影が消えることはない。

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