一日一アプリ

□第一章の扉を開く
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「ああもう、本当にかっこいいなあ」
「取っ付きにくそうだよね」
「わかってないなあ。そこがいいんだって! クールだわ……」
「ふうん」
 分厚い本を読んでいるあの人、そうそう、眼鏡をかけている彼。ね、かっこいいでしょう? しゃんとした背中に、小さなことでは波風立たなさそうな雰囲気、そして極めつけはページを捲る華奢な指。それを私は相手に気付かれないよう、視線を外しながら眺めるという高度な技術で堪能していた。
 この人はクラスメイトでも知り合いでもない。ただの一方通行、私がただアイドルを追いかけるように彼へ黄色い声をあげているだけ。話したこともない。このことを大学の友達は口を揃えてあり得ないと笑っていた。知ったものか、彼氏持ちの意見なんて聞いてないんだから。
 名前も知らない彼は、私と友達の拠点である喫茶店に日曜日だけ現れる。この情報は一目惚れをした私の賜物だ。訪れれば店員さんからも定型文以上の挨拶を頂けるまでになっていて、まさしくここは私の庭だ。
「ハア……素敵」
「話しかけてみたらいいじゃない」
「ええ、ダメダメ。眺めていたいんだもん」
「アンタねえ……」
 彼女は痛くもない額に手を当てて呆れているけれど、わからないかなあ。彼は眺めているだけでいいの。それだけで私は満足なの。彼は私にとってまさに目の保養、絶対不可侵、神聖な人ってこと。
 しかし、ここまでひそひそと周りに聞こえない声量で話していたというのに彼は席を立った。これまでにない早い時間、どうしたというのだろう。その時、私は大変な失態を犯すこととなった。いつもは当たり前のこととして消化できることが、当たり前でないことの壁にぶつかってしまった。不意に彼へ視線を注いで、ああ、と思った時には遅かった。
 彼は私にそっと会釈をする。同じ事をして、私は顔を上げられないでいた。だ、だって、目が合ってしまった。それに、彼は私を知っているかのように挨拶をしてきた。い、いや、これだけ常連なのだから、知られていて当然でしょ。ああ、でも、その、なんというのだろう、嬉しい半面恥ずかしくもある。「へえ、律儀だね」と彼が出ていった喫茶店の出入口を眺めながら呟いた彼女の声も届かない。
 けれど、初めて関わりを持てたこと。言葉にすればちっぽけなことでも、私にとっては長年育てたミカンの木が実ったくらいに胸震える出来事だった。この小さくて偉大な一歩は、私をどう突き動かすのかな。
「……名前、知りたいな」
 まだまだ伏せたままのテーブルで溢せば、彼女の手が私の頭に乗って「がんばれ」と言われた。

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