夢小説 短編

□メモリアルディ
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遠くに建ち並ぶ高層ビルを見ていた。
夕日と風が屋上にいる二人を何処かへと連れ出す為に一度、強い風が吹いたがそれは彼女の髪をただ靡かせるだけである。
戦没将兵追悼記念日を迎えたアメリカはもう、初夏と呼ぶに相応しい都市に変わってしまった。
五月の終わり、メモリアルディ。曖昧だった季節が一転し夏へと変われば、この街はまた一層騒がしくなる。寄せては返す海から聞こえる弾んだ喜悦や、庭を駆け回る愛犬を見守りながら肉や野菜をバーベキュー網に乗せていく父の姿、目に止まるだけで涼しい女性の白いワンピースが柔らかい風に靡く様も、全てはこの日から、この夏から始まる。
おかしな事は何も無い。アメリカがゆっくりと音を立てずにやって来た夏を迎え入れるのは、彼女や彼が生まれる前からやっていた事だ。言い換えればこの季節に二人の私情が挟まり、おかしく見えてしまっているだけに過ぎない。
夏は嫌いか。そう問われた時、肯定する者はこのアメリカに何人いるだろう。いるとするならばそれは恐らくそう、彼らだ。
「もう行くのか」
白い鳥は二羽、番のように寄り添い飛んで行く。飛べる鳥が彼の目に届かなくなるまで遠くに泳いでいくのを、飛べない彼は虚空まで見届けた。彼の声色は決して初々しいものではなく、難ならもう何度か経験しているような物言いだ。しかしその音には一つとして力強い音が無く、慣れているようには見受けられない。それ所か、こうなる度に何度同じ台詞を吐き、何度心を削られだろう。
「うん」
彼女は彼の顔を見なかった。見られなかった。敢えて見ていなかった。彼がどんな顔をしていたか、考えるだけで痛むのは何処でもない彼女の胸。
落下防止の柵に腕を置き、目では追えない程静かに進む夕日を眺めながら彼女は多少言葉を溜めて言う。ただ高く大きいだけのビルや街並みを一望するだけの筈が、なんの変哲もないこの景色を架け替えのない物だと思えてしまう理由がこの二人にはあるのだ。
彼は顔を上げぬよう気を配りながら、黒目だけを彼女に向け表情を盗み見る。張り付いた笑顔だった。それもとびきり下手くそで、存外なまでに。だがそれすら笑い話に出来る状況ではなく、寧ろその顔すら懐かしく映る。彼は一度、その目から彼女を消す事を恐れたようにゆったりと瞬きを行うと、また口を開く。
「夏は、嫌いだ」
断言をするように、確信を持つように、憎悪を混じえ、胸糞の悪い気持ちが腹立たしく、だが切ない声がそんな言葉を伝えた。勿論、目など合わせない。
彼女には、些か彼が子供のように見えたのかも知れない。微かに目を薄め遠くの地平線を眺めている大人びた彼が、まるで駄々を捏ねるが如く自分を引き留めようとしているのが、時間と言う一生止まる事の無い人生を全て抛ちたくなってしまう。この瞬間だけ毎年、彼女は自分が人間である事を酷く後悔するのだ。
「夏は、お前を遠くへ連れ出してしまう。私のこの平たい手からでは到底届く事の叶わない、遠く、遠くにだ。大概、私達は織姫でも、彦星でもないのに」
彼は口の端をほんの僅かに上げた後、音すら聞こえない溜息と共に取り止めた。自分の手を見つめ、一握りする動作を取るが、虚無を掴んだ所で開いても何も無い。あるのは形では表す事の出来ない青く深い海のような荒涼感だけだ。何かが始まった訳でも、終わろうとした訳でもない。まだ何も出来ていない彼らを分かつのが世間なら、彼は兎も角彼女にはそれを抗う力は無い。動ける体が彼には十二分に備わっているのに、この季節を好きになる方法が見つからないのがどれ程心苦しいだろうか。
「ただ暑いだけのこの季節を、私はまた一人で過ごさなくてはならないのか」
「……ごめんなさい」
「いや、それは、お前も同じだな」
彼女は彼の視線を感じ漸く目を合わせる。顔には一つも見せないのに、目で訴えて来る言葉は全て同じだ。それ以外何も無い。それだけが彼の唯一神に願う理由で、そして絶対に叶う事の無い儚げな想いである。
彼は一歩、もう一歩柵の上を歩き彼女に近付くと、分かっていたように彼女の方も背を屈め目線の位置を大差が無いまでに近くした。ゆっくりと頬に伸びる彼の手は心做し震えていたが、触れた途端それは治まり大きく息を吸い込む。体を巡る不愉快な季節の空気が彼を生かすのは、まるで皮肉のようだ。
「次はいつ会える」
「半年と、三ヶ月」
「まるで冬の妖精だな。夏のお前を見れないなんて、全く毎年の事ながら、残念極まる」
子を寝かしつける優しい手付きで頬を撫ぜる彼は、夏服を着た彼女を知らない。そしてこれからも知る事はない。
想像で見る彼女は夏の草原を駆け回り彼を笑って手招きする。大きな麦わら帽子を風に盗まれ、それを取り返すのはいつだって自分だ。白いワンピースを揺らしながら横を歩く彼女を、美しいと思うより先に手の甲に口付ける。夜の庭は楽器の虫が歌い、腹を立てる彼に彼女は笑い虫を肯定する。日本では騒がしいだけの彼らすら夏の風物詩なのだ。縁側から見る巨大な花火は空に浮かぶ夏の花だと教えてくれた彼女を、花の光が影法師にして映すのに、その姿は妖艶の他はなく心奪われる。浴衣姿など、想像すら出来ない。
それ程の夏だったなら、彼は誰より夏を愛していた筈だ。そうならなかったのは、夏が二人を嫌ってしまったからなのだろうか。
「また会いに来い。必ず、その時が来たら私の元へ戻って来るんだ。その季節が来る頃にはまたお前は一つ歳を取り、魅力的になっているのだろう?」
「……うん、貴方の為に、綺麗になるよ。今年も」
夏を越した彼女は、夏を迎える彼女より幾分も大人に見えた。その度に彼は、彼女が苦労を重ねている事を理解する反面に、不安を抱えている。知らぬ間の月日で、彼女が自分に見合う、それ以上の女性になっていくのは本当に自分の為なのかと。弱気になり聞ける事ではない。彼の尊厳と威厳、そして彼女の不安を煽らない為に普段の傲慢な彼でいるべきだ。
「浮気なんて出来るたまじゃないだろうが、もしそんな事をすれば、お前を呪ってやるからな」
片手で撫でていた手は項に伸び、余る手で絹のような髪を梳く。此処で、此処に二人がいた事を証明付ける印、耳を掠める息遣い、速まる鼓動すらその印に刻まれる。
「私は、他の誰でもない貴方に、こんなにも愛されているのが幸せで堪らない。これ以上ないくらい、私は貴方が好きです」
そう呟いた彼女と、彼の頬を再び強い風が追い抜いて行く。夏の風が彼女を連れ去ろうと騒ぎ始めたのだと、もう時間は無いと知った時の彼は、屋上に上がり初めて笑顔を見せた。頬を微かに桃色にする姿は、彼をこんなにも引き寄せてしまう。
髪を梳いていた手は顎から唇を通り下唇をなぞる。控えめに付いた紅と艷めく光沢は、この日の為に彼女が購入した物だと、知っていても知らなくても、彼は同じように燃えるようなキスをしただろう。
嘴と唇、種が違うと何もかも否定されているような構造の違いは今の二人にとってなんの問題にも壁にすらなっていない。啄むようなキスでも、幾度も行うキスでもない。ただ一度、たった一度だけの、長い、長いキスをするだけだ。それなのに心に咲き乱れる興奮と愛情の花は、幾個も開花し底に落ちる。火傷する程長く熱いキスは数十秒に渡り彼の想いを送った。
愛している。それだけの言葉を、彼女に伝える為の数十秒はあっという間に過ぎた。唇から離れていく彼の嘴は、紅が薄く乗って愛の印を形に残す。
「相変わらず、キスだけは一人前だな」
離れてもすぐそこにお互いの顔がある。少し動けばまた触れられる距離に。だがそれはしなかった。あのキスで満足しない者など、あのキスで幸福感を満たせない者など、いる筈がない。
惜しむような名残惜しい手付きで頬を撫でていた手が彼女から離れ、滑り落ちて行く。空にいた筈の夕日はもう、高層ビルに七割近く喰われてしまっている。時間が来てしまった。けれど、後悔はない。
「さあ、時間だお嬢さん。もう夏が来る」
「……うん」
「行くんだ」
彼は笑顔を絶えさず彼女を見送った。手摺りから手を離し二、三歩後退した後、彼女も笑い返し背を向け走り出す。扉を引き屋上の階段を下る音は、まるで冬をそこへ置いて来てしまったようにも思える。
彼女が屋上から消えた途端、ビルの隙間から覗いていた夕日の明かりは消え、地平線に沈んでしまった。夏が彼女を攫った途端、吹いていた風はピタリと止まり、いつもの騒がしいアメリカが戻って来る。まだ微かに残る接吻の感触は、彼女が再び戻って来るその時まで残っているだろうか。
時は残酷だ、それは誰でもない彼自身が良く知っている。どれ程強く想っていても、この手の肌触りや、唇の厚み、愛おしい彼女の匂いでさえ霞んでしまう。だからどうか、夏が彼を苦しめる時くらい、今あった全ての事を忘れさせずにはいられないだろうか。
赤い空が紫の空に切り替わる。鳥のように白い飛行機が道のない空を飛んで行く。飛行機雲は彼女の向かう日本までを繋ぐ架け橋だ。五月の終わり、夏の始まり。
嗚呼、ほら、もう彼女の国では、五月蝿い蝉が鳴いている──。

END

  

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