コンスタンティノープルの陥落

□コンスタンティノープルの陥落その2
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1453年 春




東ローマ帝国、すなわちビザンツ帝国は、6世紀のユスティニアヌ

ス帝の時代に西地中海を征服し、ローマ帝国のほぼ全版図を回復

していた。



しかし、その後はさまざまな民族による侵略を許し、1453年当時

の領土は、「帝国」という名前とは裏腹に、首都コンスタンテ

ィノープルと、ペロポネソス半島の一部を残すのみとなって

いた。



東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス11世は、当時49歳。

古代からつづくヨーロッパ文明の中心の皇帝にふさわしい優雅で

穏やかで洗練された紳士であった。

皇帝は対トルコとの戦いに備えて、西欧の国々に援軍を頼むと同

時に、援軍が来なかった場合の戦力を調査させていた。

その結果は次の通り。


海軍については、

ジェノヴァの大型帆船、5隻

ヴェネツィアの軍用・商用ガレー船、5隻

クレタの商用ガレー船 3隻

その他帆船が3隻


陸上で防衛のために使える戦力は、

ラテン人居住区、外国人傭兵加え、西欧側から2千人

ビザンツ帝国人 4773人

合わせて7千人足らず。

ビザンツ人の首都を防衛するために中心として戦えるのは、ヴェ

ネツィアを中心としたイタリア諸都市であり、この時ビザンツ人

はすでに戦うための力を有していなかった。



これに対してオスマントルコは、スルタン親衛のイエニチェリ軍

団1万5千を中心として、強制的に集められたセルビア兵なども

含め15万を超える陸軍。

そして大型船から小型船までで構成された約150隻の艦隊。




スルタンメフメト2世はこの大軍を率いて、コ

ンスタンティノープルにむかったのであった。



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