ひらけ

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「黛さんは他のスターティングメンバーに比べて圧倒的に劣っています」

菊池咲来。1年マネージャー。くすぶっていた俺にあっけなく現実を突き付けて、鬼のような練習を強いた。

「吐いたら教えてください。バケツ洗ってきますので」「なにそれくらいでへばってんですか。しっかりしてください」「姿勢を正して。余計疲れますよ」「速度落ちてます。もっとキビキビと」「4回サボりましたね。罰として40回追加です」

年下の女子に自分の失態ばかり見られ、それを指摘されるのは、最初の頃こそ屈辱でしかなかったが、今はすっかり慣れた。というか、1軍の奴らの俺に対する悪態を考えれば、いくら鬼マネージャーと言えども彼女の態度はマシである。
経歴などは知らないが、菊池は尋常じゃないほどバスケに精通している。赤司からの信頼も強く、1軍の練習メニューは全て菊池が考えている。指導の仕方は鬼のようだが的確で。怒鳴ることはないが、笑顔ひとつない冷淡な表情のせいだろうか、部員の畏怖の対象となっている。しかし紛れも無い美人なので人気は高い。特に、赤司や実渕などの顔の整った奴らといると、まるで絵から抜け出てきたかのように彼女の美しさは際立つ。

「お疲れ様です」

菊池の声だ。感情のこもってない冷めた声。仕事で体育館に来たのだろう。俺は専用メニューをやっと終え、床にへばって死にかけていたが、上体を起こし、近くまで来た菊池からスポーツドリンクを受け取った。

「おう」

他の部員の倍ある練習をこなしても、流れ作業をするように無表情で労うだけ。コイツは本当に、にこりとも笑わない。

「お前、表情ねえな」

言うつもりはなかった言葉が無意識に出た。いささか喧嘩腰な言い方になった。気を悪くするだろうか。
菊池は一瞬、雑用を淡々とこなす手を止めた。しかしすぐに作業は再開され、俺を一瞥することもなく、何事も無かったかのように体育館を出ていった。


汗を拭き着替えて外に出ると、既に辺りは真っ暗だった。菊池はまだ仕事をしている。俺より帰宅が遅いわけだ。女子がこんな夜道を1人で歩くのは危険だろうに。いや、あいつなら変質者に遭遇しても颯爽と撃退するだろうか。

「黛さん」

驚いて振り向くと菊池がいた。
菊池は制服を着て、走って来たのだろうか、息を切らしていた。いつもの、息一つ乱さないような冷静沈着な態度からは想定できない新鮮な様子が見られて、喜んでいる自分がいる。

「この水筒、黛さんのでしょう」

菊池は俺のものとそっくりな水筒を片手に持ち上げた。慌ててスクバとエナメルの中を確認すると、確かに無い。

「ああ、俺のだ。悪いな」

白く華奢な手に握られた水筒に手を伸ばすと、菊池は腕をひょいと上げ、俺に渡すまいとした。赤司なんかにやられたら腹が立つだけだが、菊池がやると妙にコミカルでにやけそうになる。

「くれないのか」

俺は問いかけた。菊池は数秒目線を俺から外した後、いつもより柔らかな声でこう言った。

「お礼を言ってください」

驚いた。こいつこんなんだったか。意外過ぎる一面を見てしまった。にやける。

「...さんきゅ」
「もっとちゃんと」

暗闇でよく分からないが、菊池の顔が赤らんでいるように見える。俺は頬が緩んでだらしない顔になってるだろう。菊池が俺の方を見ていなくて助かる。

「ありがとな」

俺が感謝の意をきっちり述べると、菊池はいつも以上にきびきびとした様子で俺の近くまで来て、わざわざ俺のスクバに水筒を入れた。急に詰まった距離や彼女から香る女性特有の甘い香りに頭がくらっときた。

「どういたしまして」

スクバのチャックが隙間なく閉まる。菊池は俺から離れて、続けてこう言った。

「表情がないのは黛さんもです」

いきなりなんの話だ、と戸惑ったが、体育館での俺の失言に対する返答であることにすぐ気付いた。

「俺は普通だ」
「いいえ。朴念仁です」
「それはお前じゃねえの」

菊池は俺の目をじっと見つめて、「お疲れ様でした」と普段と同じように冷淡に言い、すたすたと歩き出した。俺の家とは反対方向だった。

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