0と100

□必然の硬化
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6月になって少し経った頃、わたしは葛藤していた。
勉強で分からないところが多すぎる。
しかし日曜日の午後という今、赤司君のようにひょいっと現れてくれる救世主はいないし、友達に聞くのは自分が勉強してることを知られたくないから気が引ける。学校の先生に聞きに行くのはめんどくさい。塾や家庭教師はもちろんやってない。

こうなった時に頼れる人は1人しかいない。頭のいい幼なじみ。
いやでもあっちはあっちで忙しいし。
こないだのやりとりが尾を引いているわけでは決してない。もう1ヶ月以上も前のことだ。ほぼ無かったことに等しい。
ただあの日を機会に、受験生かつ強豪校のバスケ部レギュラーなスーパー多忙人間黛千尋の時間を奪うことがどれだけ罪深いことなのか、よく考えるようになった。そうしたら自然と、わたしから話しかけたりちょっかいをかけたりすることはほとんど無くなった。

前までは考えなかったことをよく考えるようになったと思う。こうしてみると、わたしは小中の頃はかなり無遠慮な人間だったんだなあと認識できる。今もそうだろうけど。
これが成長するということなのかなあ。なんか寂しいなあ。こういうのが重なって別々になるんだろうか。ずっと一緒がいいな。

シャーペンを握って授業プリントとにらめっこしてても余計なことばかり考えてしまって何も進まない。これじゃ駄目だ。
息抜きがてら外の空気に当たろうと思い、部屋着から簡素なパーカーとハーフパンツに着替え、財布を持って玄関に行きスニーカーを履いた。今が梅雨であることも考慮して傘も持った。
鍵を開ける。がちゃり、という音が2重に聞こえた気がした。
気のせいだろうと考えてドアを開けると、1室隣の例の人物がわたしと全く同じ動作をしているのが目に入った。
偶然過ぎやしませんか、これ。
いわずもがな、腕まくりをした紺色のシャツに黒いチノパンというラフな格好でビニール傘を持っている千尋ちゃんが、目を見開いてこっちを見ていた。

「...久しぶり」
「...よお」

ドアの鍵を閉めながら挨拶し合った。なんだこの微妙な空気は。

「どっか行くの?部活は?」
「...午前で終わったから息抜きすんだよ」

話をしながらエレベーターに乗った。千尋ちゃんいいにおいがする。シャワー浴びてきたのかな。

「あ!あれでしょ、知らない駅にぷらっと降りるやつでしょ」

千尋ちゃんは小さく頷いた。
知らない駅で降りるというよく分からんゲーム。よく彼が休みの日にやるやつだ。

「ついていっていい?」とこの間までと同じノリでつい聞いてしまった。しまった。超絶多忙人マユズミの貴重な1人の時間を奪ってしまう発言を軽々しく残してしまった。失敗だ。

「やっぱいいや」と言おうと口を動かしかけた瞬間、「いいけど定期持ってるか」というぶっきらぼうな声が聞こえてきた。
いいんだ。よかった。

「持ってる持ってる持ってます」
「...じゃあ行くぞ」

エレベーターから降りて、外を2人で歩いた。

こうするのは久しぶりだからか、わたしの口は絶えず動いた。自分でもよく喋るなあと感心した。心なしか千尋ちゃんもいつもより喋っていた気がする。梅雨のどんよりとした気候とはうらはらに、わたしの心に爽快感が走り続けた。

駅には人がいっぱいいた。湿気と熱気が合わさって不快指数が上昇する。日曜の午後なのにどうしてこんなに人だらけなんだろう。そう呟いたら、彼が「寺かどっかでイベントでもあるんじゃねえの」と顔をしかめながら言った。
まずい。千尋ちゃんは人混みを毛嫌いする人だ。せっかくの彼のオフが。せっかくの貴重な時間が台無しに。
人混みに遭遇したのはわたしのせいじゃないのに、どこからともなく申しなさが湧いてきて下を向きながら乗車した。この混みようだ、もちろん座れなかった。

「...人すごいね」
「チッ」

舌打ちって。舌打ちってひどくない?ほんとにわたしが悪いみたいじゃないか。
さっきまでの爽快感はどこへやら、申し訳なさがぐんぐんと膨らんで、人の足でひしめく地面しか見れなかった。

「なに下向いてんだ」
「...人が多いから」
「お前がしょぼくれる理由になんねえだろ」

千尋ちゃんのこの一言が耳に残った。
そうだよ。わたしはなんも悪くないのに。なんでこんな落ち込んでるんだろ。
申し訳ないから。誰に?千尋ちゃんに。なんで?わたしなんかと一緒にいてくれるから。千尋ちゃんも、人混みに入るまでは楽しそうだったけど?
ちがう。なんだろう。気にしすぎてる。
何を?って自問してら、頭の思考回路がパンクしそうになるくらい色んなことを考えた。
でも結論はひとつだった。「千尋ちゃんが楽しんでるか気になるから。」
わたしは彼を気にしすぎている。彼のポーカーフェイスを悪い方に捉えすぎている。
前はこんなこと無かった。なんでだろう、大人に近付いたからかな。それとも、わたしは。

思考を巡らせていたら、あっという間に窓から見える景色が一時停止した。もう次の駅に着いたようだ。
ドアが開いた瞬間。人がなだれ込んできた。わたしは隅の方に追いやられた。
弾みで壁に頭をぶつけた。ごんっと鈍い音が響くと同時に強烈な痛覚が走り、奇声に近い悲鳴を上げた。

「い゙!!!だぁ!!?」

痛すぎて俯いたら、「アホすんな」と聞きなれた声が真上から降ってきた。
ん?と思って顔上げた。
目の前に鎖骨があった。
目線を上げたら千尋ちゃんの顔だった。
左右には彼の腕が伸びてた。
今の状況を一言で説明すると、少女漫画界隈の王様、いわゆる壁ドンに近い。というかほぼそれ。混みまくりの電車という背景をとっぱらってしまえば完全にそれだ。

いや、近い。普通に近い。なんだこれ。
目線が安定しない。いいにおいがする。顔が熱い。なんだこれ。なんだこれ。
千尋ちゃんはどういう顔してるのかな、照れてたら面白いな、と思ったけど見るに見れない。見たら恥ずかしさのあまり倒れる。

とりあえずなんか喋って自分を落ち着かせようとした。なんかしゃべる。なにを。なにをしゃべれば。

「...人すごいね」
「...そうだな」

いやこれさっき言った。でも千尋ちゃんの返し方が丁寧になってる。これ千尋ちゃんも動揺してる?いやまさかあの朴念仁がこれしきのことで。いやでもありえるぞ、よし顔を見るか。
いや見れない。見たら死ぬ。恥ずかしさで死ぬ。なんだこれ。早く降りよう。でも降りたらせっかくの散歩が。

追い討ちをかけるように事は起こった。
また1つ先の駅に着いた。もうさすがに人来ないよね、ていうか少しくらい降りてくれるよね、いや降りろ。というわたしの悲痛な心の叫びは虚しく、さらに多くの人が乗車してきた。

「っうお!!」
「ひぐおぅ!??」

千尋ちゃんが人に押されて、車内の隅にさらに近付いた。つまりそれは、わたしに近付くことと同値であって。

壁ドンもクソもない。ただ密着してるだけだ。なんだこれ。
千尋ちゃんが押される時即座に横を向いたのは正解だった。そのまま前を向いてたら目の前が肌色一色になってた。
いやでも、横を向いたら耳に彼の息がかかる。この朴念仁も気をつかってくれているのか呼吸の回数は少ない。でもくすぐったい。耳だけが以上に熱い。
腕は折り曲げられていた。必死に離れようとしているのか、ふるふると震えていた。その腕に血管が浮き出ているのが見えた。
この人こんなに男っぽかったっけ。
わたしの胸が彼の固い胸板の下らへんで潰れている。ブラはしているものの、下にシャツなどを着ていないからダイレクトに感触とかが伝わっていたらどうしよう。
脚と脚が絡まる。薄い素材のチノパンから、彼のほどよく鍛えられた長い脚の形がうかがえる。
恥ずかしすぎる。早く終われ。早く終われ。
そう願えば願うほど、鼓動は速く激しくなる。気のせいだろうか、その音は2重に聞こえる。
頭が変になりそうで、もうどうしようもなくて、なんにもできない。
すると、千尋ちゃんが声を出した。

「つぎ、降りるぞ」

声の近さに身震いした。まともにうんと言えなかった。
ふわふわしてきた。もうどうでもいいや。よく分かんないけど気持ちいい。ああ、これってつまり、もしかしなくても、わたしは。

体の全てが熱くなったが、その熱はすぐに冷えることになる。電車が止まると同時に密着が解けて、さっきまで一体化していたひとりの男の人に腕を引っ張られ、自分が今何をしているのかよく分からないまま人混みに揉まれつつ降車した。

ぷしゅー、とドアが閉まる音はわたしを目覚めさせた。

「あ、ここ、えき」
「災難だったな」

千尋ちゃんはいつものポーカーフェイスだった。ずっとこの顔だったのか、今さっき戻したのか。電車での彼の顔を見ていないから分からない。見ればよかった。いやでもやっぱり見なくてよかった。

体のほとぼりが冷めるまで、駅のホームのど真ん中につっ立っていた。千尋ちゃんも動かなかった。
何分くらいそうしていただろう。千尋ちゃんが口を動かしかけた。声はなかった。何を言いかけたのだろう。
このまま2人でいたら気が変になる。まともにこの人の目を見れない。だから別行動をしようと思い、こう提案した。

「わたし、近所のコンビニで立ち読みしたいから千尋ちゃんは好きなとこ行ってて。ちゃんと帰れるし」

少し沈黙が続いた。この人はわたしのことを見ているみたいだが、わたしはこの人のことをちゃんと見れない。どうしてこの人はこんなにも冷静でいられるの。2つ年上だから?

いや、たぶんわたしがこんなふうになってしまったから。わたしが、千尋ちゃんをこういうふうに見てしまったから。

「分かった。じゃあ、気をつけろよ」

彼はそう言って踵を返し、ホームを出る階段の方へ歩き出した。

わたしはしばらくそのまま立ち尽くしていた。
ただぼーっとしていただけではない。ひとつ、あることについて考えていた。

わたしは千尋ちゃんことが好きなんだ。

恋愛の経験はある。だからこそ分かる。この感情はこれだ。型にぴったりとはまる。

でもいまさら何をしろと。分からない。あの人との関係を変えたくない。でも好き。

行き交う人たちの視線が突き刺さる。ここでは人の邪魔になる。
恋慕の自覚だけを脳内で反芻し、行くあてもないまま駅から出た。

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