SHORT

□ただいま
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ただいまー…

ま、そうなるか。当たり前だ。
早く帰ってきてね、なんて言っても彼には彼の事情がある。



彼、精市はエリート商社マンだ。

私と彼は中学時代からの仲で、長くも短くもお互いだけを愛して今日まで過ごしてきた。
去年からは晴れてこの部屋を借りて2人で住み始めた。
けれど。彼は出張が多い。
長い間家を1人にはできない。それも同棲の1つの理由である。

彼は若いながらに着実にキャリアを積んでいるようで、同じように企業勤めの私には考えられないくらいの大役を任されていたりする。
年齢も同じ。出会った頃は背も同じくらいだったのに、いつの間にか何もかも抜かされてしまった気がした。

そんな彼は2ヶ月前から出張に行ってしまった。寂しいけれど、彼の仕事の邪魔はできない気がして、電話もメールもできなかった。
彼が家を出るときにした熱いキスが忘れられなくて、思わず唇を噛む日もあった。



『帰ってくるのは…3月5日、の予定。』
「…!精市の誕生日だね!楽しみだなぁ…早く帰ってきてね…?」
『あっ、そうか。それは早く帰ってこなくちゃ』
「ふふふ!ごはんはきっと豪華で美味しくするからね!」
『うん、嬉しいよ。俺、出張中はなつめのごはんが恋しくて恋しくて』
「ごはんだけ?」
『さあ?』

ふふふと笑い合った後に訪れたしばしの静寂。精市の出張なんて慣れっこなのに、寂しさには何回目でも慣れなかった。

事故とか病気とか、ならないよね?
私がいなくても忙しくてもご飯ちゃんと食べなきゃだめだよ?
他の女の人、好きになったりしたら、やだよ?

心配が顔に出たのか、それを察したのか。勘の鋭い精市は私をそっと抱きしめてキスを落とした。それに応えるように腕を背中に回せば、抱きしめる腕はきつく強く、キスは激しさを増した。
歯列をなぞる舌に、甘く啄む唇に、彼の不安が仄かに香った。ゆらりと離れていく歪んだ顔には、必死さと苦しさが滲み出ていた。

彼も心配なのだろう。そう思うだけで、私の思いだけが一方的なのではないと、うっすらと光が差し込む。

行く時間だ、と彼が腕時計を見る。その仕草さえ愛おしくて切なくて、たった2ヶ月、されど2ヶ月。どうすればいいのかわからなかった。


行ってらっしゃい。
できるだけ明るく振る舞った。あなたの記憶の中の私が、「元気をくれる明るい恋人」で一時停止されるように。
帰ってきたらたくさんお話聞かせてね。あなたも不安なんだって、初めて知ったの。だから帰ってきたら、たくさん甘えて甘やかしてね。そう思いながら。

ドアのガチャンと閉まる音。精市は忙しい人だから、当日に帰ってこないかもしれない。長引くかもしれない。考えられないような何かが起こるかもしれない。

やっぱり寂しくて、作った笑顔はほつれて涙が出た。精市に見られてなくて、よかった。
無事に帰って来てね、お仕事頑張ってね。そう言う口はあるけれど。
行かないで、なんて言える口は私にはないから。

本当はもっと一緒にいたい。



彼の帰宅を考えれば多少の仕事のミスも電車の遅延も、空に散る星屑よりも遥かに小さなものだった。


彼を思って眠れない日々が続いたせいか少しの眠気に足元がふらつくが、履き慣れないピンヒールのせいにして帰路を急ぐ。

彼のためにケーキを買おう。夕食の買い物は昨日のうちに済ませておいた。仕込みもばっちりだ。ちょっとキザだけど、お花のブーケも買おうかな。

ケーキは純白のクリームがとろけそうなショートケーキにした。クリームの上の大きなイチゴが「早く食べて」と囁く。
彼の好きな花、ダリアは季節ではないけれど、お花屋さんにお願いしてそれに負けないようなとびきり素敵なブーケを作ってもらった。

駅から家までの道のりは、早く会いたいような、まだ心の準備ができていないような、不思議な気持ちだった。

学生時代に彼とデートをした日のことを思い出した。その時の脈の音と今日のそれは似ていた。


もし私より先に帰って来ていたら、荷物を放り投げてでも飛びつこう。そう期待に胸を膨らませながらドアチャイムを押すけれど、反応は無い。
ガチャリと鍵を開けて「ただいま」と言ってみても、部屋は暗く静かで少し寒い。
玄関には自分の靴だけで、他に人の気配はなかった。

テーブルの上にラッピングを崩さぬようにそっとブーケを置いて、ケーキは冷蔵庫に入れる。大口を開けて丸呑みしてしまう冷蔵庫も今日だけはお腹いっぱいのようで、少し中を片づけてやった。

よく煮込んだスープ、塩胡椒とハーブで下味をつけた白身魚。あとはどれも少し火を通すだけにまでこぎつけた。
彼が帰ってきたときに、1番美味しいごはんを出したい。どれも完成まであとほんの少し、というところでキッチンの時を止めた。


ソファに腰掛けてケータイのディスプレイを覗く。時刻は8時、ゴールデンタイムというやつだ。彼はまだ帰ってこない。
いつもなら、少し疲れた顔をして『ただいま』と帰ってくる時間だ。
その疲れた顔も、食卓に着けば自然と和らぐのだから不思議だ。


やっぱり今日は早く帰れそうにはなかったのか。もしかしたらまだ出張先を出てすらいないのかもしれない。
「どれくらいで帰れそう?」
とメッセージを残してみても、返事はない。

明日になったらこのブーケは色を失うかもしれない。彼の望む食事を出すことはできないかもしれない。そして、私の心がもたないかもしれない。


最後に見たときの彼が記憶をかすめて、鼻の奥がツンとした。
早く会いたい。彼の誕生日だからというだけではない、特別な気持ち。
会えなかった日々は今までの2人の時間の中で決して長かったわけではない。

それなのになんでこんなに恋しいの?


お気に入りのネックレスが黒ずんだこと、あなたの代わりに世話をした鉢植えがようやく蕾をつけたこと、少しだけ背が伸びたこと。
あなたが帰ってきたときにって、話すことたくさん、たくさんあるんだよ、精市?

私はあなたの人生の中のなんなんだろうって、少しの不安があったのかもしれない。
出張中に家を守ってくれる健気な彼女?私はずっとそのままなのかなって、考えていた。
あなたは忙しい人だから。
周りの友達に変化がある中で、私だけ取り残されているような気がして仕方がなかった。

彼に不満なんてこれっぽっちもないはずなのに、どうして地に足がつかないほどに不安なの?

早く会いたいよ…帰ってきてよ…。


ぐずぐずとソファの中に埋もれて空を仰ぐ。頬を伝う筋が零れ落ちて、布張りのカバーに模様を描く。
まるで自分の周りだけ雨が降っているかのように、布の水面には波紋が揺れた。
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