ナイルの雫

□終章
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夜。
宰相セヌウは執務室にいた。
手許を照らす微かな灯りを頼りにパピルスにペンを走らせる。

時折、その手を休めて肩や首をぐりぐり回してみる。
肩も首も腰も大分凝っているらしく、軽く動かすだけでミシリと身体が軋み、酷使された身体がまるで悲鳴を上げているようだ。

ひと月前から、この上下エジプトを治めるファラオは不在である。
ついでにいうと将軍も。
加えて、そのことを知っているのはセヌウとネフェルト王女、そしてテオの三名のみ。
他の大臣などには病気と言って誤摩化してある。

内政については全て引き受けてやるから心おきなくアイリ王妃を救いに行けと大口を叩いたはいいが、ファラオ不在のなか国を取り仕切るのは思ったよりも重労働だった。

さすがにもうそろそろ、病気と言って誤摩化すのには無理が生じ始めている。
今日など、さる大臣の一人から、本当はおまえがファラオを害して国を牛耳ろうと企んでいるのではないかというような事を言われてしまった。

セヌウはため息をついた。
勿論そのようなつもりは毛頭ない。
だがセヌウが古参の大臣からはあまり好かれていないのも事実だった。

セヌウの三十過ぎという年齢は宰相として国政を取り仕切るにはやや若年であるし、おまけにセヌウには家柄がない。
普通の、少しばかり裕福な庶民の家庭に生まれ、猛勉強の末何とか下っ端の書記になることができた。

王宮で働くうちに先代のファラオに才を見出され近侍となり、そして現王ジェセルカラーが即位するや臣下の最高位である宰相へ上り詰めたのだ。

自分は宰相を任されるような器ではない、と己を過小評価する気はないが、二代続けてなかなかに冒険心のあるファラオだとは思う。

無事に帰ってきてくれるだろうか。
ジェセルカラー王にもしものことがあろうものならば先王に申し訳が立たない。

……いや、大丈夫だ。彼は必ず無事に、王妃を連れて帰還するに違いない。

そう自らに言い聞かせ、再びペンをとったときだった。

卓上の灯りが僅かに揺れた。
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