短編小説
□小さな足跡
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猫が人間に化けているのかと、僕は初めて彼女を見た時に思った。
いわば彼女の第一印象だったのだが、今もそれを鮮明に覚えている。
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彼女の名前はクロ。本名は知らない。
けれどクロといえば誰にでも通じるので不便だとは思わない。
まぁ彼女の事を呼ぶほど仲良くもないし、ましてや知り合いでもないのだが。
「ナリタ」
僕を呼ぶ声に立ち止まり、声がした方に振り向く。
そこにはまだ20代の若先生が片手を上げて笑っていた。
僕は小さく頭を下げてそれに応える。
「なんですか?先生」
「クロのやつが俺にチョコを渡してきたんだ。でも、俺は甘い物が食べられないからお前にやるよ」
僕のてのひらに乗せられた一口サイズのチョコレート。
若先生は満足そうに去って行った。
僕はチョコレートを口に含み、何事もなかったかのように歩き出した。
ただ口の中だけは甘さでいっぱいに満たされていた。
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「ナリタ、テストの結果見た?」
「テストの結果?」
「ほら、上位50位は先に渡り廊下に貼り出されるじゃん」
「あぁ、そうだっけ?いや見てないよ。なに?自信ありそうじゃん」
「へっへーん。今回はめっちゃ勉強したんだよね」
「じゃあ、見に行こうか」
「おうよ!」
胸を張って歩く友人と共に、渡り廊下へと向かった。
渡り廊下にはそれなりに人だかりができていて、嬉しそうに笑みを零す者や、さも当然だと言うように掛けている眼鏡を押し上げる者、期待していた結果とは違い落胆する者で溢れている。
「えっとー、あ、ナリタ発見。やっぱすげーな。今回も2位!」
「僕からしたらまた2位だよ」
1位にはクロと書かれていた。
何故、フルネームで書かれるはずの掲示板にまであだ名なのだろうか。
もしかしてテスト用紙にもクロって書いているのだろうか?謎すぎる。
「あ、ほらほら!俺、48位にくい込んでるだろ!?」
「いや、くい込んでるって。次回は入ってないこと前提なの?」
「え、うん」
さいですか。
「クロの本名知ってる?」
「クロ?あー、そう言えば知らないなぁ。本人に聞けば?」
「聞きづらいから聞いたんじゃん」
「普通に優等生なのに、あの近寄りがたいオーラ。本当、不思議ちゃんだよな」
確かに一クラスメイトとして言えば、大人しい雰囲気で、学年1位ときたらただの優等生かもしれない。
けれど、それでは少し首を傾げてしまうから不思議なのだ。
「……クロって、目の色何色?」
「目?さぁ……金色?」
「いや、常識的に考えてありえないだろ」
「だよな〜。つい、黒猫の感じで言ってた」
たはははは!と訳の分からない笑い声を上げてその場を離れる友人を追いかける。
ふと、窓の外を見れば裏庭に寝転ぶ黒髪を見つけた。
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僕は、裏庭に降り立った。
もう放課後だから彼女はいないかもしれないが、気になったのだ。
「誰?」
僕は驚いた。
こちらを見上げる黒色の瞳。
「えっとー……クロ?」
「そうよ。何か用?」
「まだいたんだね、ここに」
「まだとはどういう意味?」
「僕が見かけた時からずいぶん時間が経っているからもういないと思った」
「そう」
彼女の長い綺麗な黒髪に葉っぱがいくつかついていた。
「葉っぱ、ついてるよ」
僕はそう教えてやる。
けれど彼女は取る素振りを見せない。
特に気にしていないようだ。
「チョコレート、食べた?」
「え、どうして?」
「甘い匂いがしたから」
チョコレートの匂いなんてもうしないと思っていた。
あんな小さな欠片をずいぶん前に食べたのに、彼女の鼻には届いたのだろうか。
それともたまたまだろうか。
その時、最終下校時刻のチャイムが聞こえた。
もう空は暗くなりはじめている。
「僕、帰るね。また明日」
「また明日」
まだ立ち上がろうとしないクロを一度だけ振り返る。
なんとなく二度は振り返らなかった。
鶴の恩返しのような展開を考えたのかもしれない。
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「あ」
僕は思わずそう声を漏らした。
朝、昇降口でクロを見かけたからだった。
いつも通りの黒髪と僕と目が合う黒色の目。
「おはよう。ナリタ」
「おはよう」
僕の名前、知ってたんだ。
先に歩いて行く黒髪を目で追う。
ふと、止まったかと思えばこちらに振り返り「行かないの?」と言ったので僕は慌てて後を追った。
その日は突然に席替えが行われた。
急遽、担任の授業がHRに変わったからである。
そしてくじを引き席を変えれば、僕の隣りにはクロの姿。
「ナリタだ。よろしく」
「うん。よろしく」
表情は変わらず、何を考えているのかわからなかったが声のトーンが高かったため、嬉しそうな感じがした。
僕も素直に嬉しいと思った。
それから受ける授業はいたって普通で、クロともそれ以外何も話さなかった。
チャイムが鳴った。
やっと放課になった生徒たちはそれぞれに羽を伸ばす。
僕の隣りの席では机に突っ伏したクロがいた。
僕の友人は部活に行ってしまい、もう教室にはいない。
「クロ」
僕はそう彼女の名を呼んだ。
彼女は何の反応も見せない。
このまま放って帰ってもよかったのだが、いくらなんでも可哀想だ。
マイペースなクロの事だからきっと先生が見回りに来るまで起きないだろう。
「クロ」
もう一度呼ぶ。
なんだか、恥ずかしい。
いつの間にか静かな教室では僕の声が大きく聞こえる。
僕は躊躇したが、クロの肩を軽く揺する。
細く、折れそうな肩に僕はすぐに手を放す。
クロがゆっくりと上体を起こす。
黒髪が揺れた。
「ナリタ、呼んだ?」
「えっと、もう放課後だけど」
「本当?起こしてくれてありがとう」
がたっと席を立つクロ。
鞄を片手に歩き出す背中に声をかける。
振り返る黒髪。
「クロ、名前はなんていうの?」
「ナリタは?」
「え、僕?僕はナリタジンロウ」
「ジンロウ」
ふいに名前を呼ばれ、僕は悪いことをしたような錯覚を起こす。
「素敵な名前ね」
「ありがとう」
まさか、褒められるとは思わなかった。
今まで、あまり好きではなかったこの名前が好きになる。
単純だけど、きっかけはそんなものだと思った。
「君の名前は?」
「クロ、」
その時だ。
彼女の言葉を遮るように飛行機が通る。
轟音が彼女の言葉を掻き消した。
彼女の口元だけが厭らしく動く。
嗚呼、時間よ巻き戻れ。
飛行機が過ぎ去った時には、彼女は笑っていた。
「それじゃあ、また明日」
彼女は気紛れに去っていく。
僕はしばらくその場を動けないでいた。
それから、僕は夢を見るようになった。
辺りは真っ白で、ただまっすぐに一本の道がある。
しばらくその道を歩いていると、ぼんやりと人影が浮かび上がる。
よく目を凝らせばそれはクロで、僕を見つけると逃げるように背を向ける。
慌てて追いかければ、クロは黒髪を左右に揺らしながら体が徐々に小さくなっていく。
瞬きの刹那、そこには一匹の黒猫が足跡を残すだけ。
呼び止めても止まらない、マイペースな猫がいるだけだった。
ぱちりと目を覚ます。
たびたび見る夢だが、僕はそれの意味をいまだに汲み取れないでいた。
でもたぶん悪い夢ではないと思うから、今日もクロの隣りの席に座るために学校に向かう。
今日こそ名前を聞こう。
そんな目標を掲げながら。
-fin.