長編小説

□白いシャツと優しいウソ
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ほんの数分間話しただけの相手に心揺さぶられているのは嫌でも意識させられる。
心臓がまだドクンドクンと強く脈打っている。
その胸に手をあてる。
てのひらに伝わる熱量にじっとりと汗がにじむようだ。

―今日が終わるまでに決める。


私が住む家は古い木造アパートの一階。
駐車場を兼ねている砂利道を静かに歩き、端から三戸目のドアノブをひねる。
鍵はずっと前に壊れたままだ。
しかし泥棒が入ったことは一度もない。
玄関を開けてすぐ目につくのはゴミ袋に詰められたごみ。
そのほとんどはコンビニなどの空き容器と酒の缶や瓶類だ。
家の中もむわっと湿気にまじり、酒と男くささが鼻をつく。
私が帰宅したことに気付いた男は―私の父は手にしていた酒瓶を投げつけてきた。
反射的に身を低くし、それを避けると胸倉をつかまれ、意味も分からず殴られた。
奇声を発し、異常行動としか思えないそれに耐える日々に耐え兼ね、母はずっと前にいなくなった。
そして私は頭部への強い衝撃に意識を失くした。


/


酷い鈍痛に目が覚めた。
頭を押さえながらゆっくりと体を起こす。
口の中も血の味がする。
父のいびきが部屋のどこからか聞こえてくる。
私はそうっと家を出た。
外はとうに夜に包まれており、月が明るく空を照らしている。
私は砂利道を静かに歩き、やがて道路まで出ると走り出した。

不思議と苦しいはずの呼吸も感じられず、涙を流しながら昼間の不思議な会話をした場所まで走っていた。
そしてゆるめることなく一度は躊躇したはずの欄干を簡単に飛び越え、向こう側へ飛んだ。

身体はみるみる重力に従い落ちていく。
もう下まで遠くない。
だから私は口にした。


「うそつき」


また意識が遠のく。
このまま死のう。
それがいい。


「嘘は吐かないって言ったの忘れた?」


すぐ側から聞こえた声に閉じていた目を開ける。
私の身体は宙に浮いておらず、欄干を越えてすらいない。
同じように地面に足をつけて彼がこちらを見ている。
生きてる、と思った。

「私は……」
「二度は聞かないよ。君にはまず地球で死んでもらう。矛盾は嘘と同じだから」
「……わかりました」
「やけにすんなり受け入れるね」
「父に殴られたんです。いつか殺されるに違いないって思っていて……今日も死んだと思ったのに、たんこぶができただけで……」
「だから顔が痛そうなんだね」

彼の手が頬と頭部を撫でるようなしぐさをとる。
実際には触れていないのに、腫れた熱っぽさや痛みが消えた。

「このまま死んでも地球で生まれ変わる輪廻に乗ってしまうからそれも断ち切る」
「あなたは私を捨てない?」
「大丈夫。わたしの側にいてもらうために必要なことだから」

彼が差し出した手を握る。
温かい手だった。

「おやすみ」

身体から余計な力が抜けていく。
彼が体を受け止めるのと同時に意識が遠のくのを他人事のように感じていた。

「今はゆっくり休んで」
 
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