CP9小話


□Per aderire
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加筆版:1


 見慣れないものを見た。いや、正確にいえば見慣れていたものを見た。他人のものだとするならそれは確かに見慣れたものだったのだ。自身の影の中に落ちた、生ぬるくて滑りのある、鉄の匂いが鼻につく赤いもの。
 ああこれは、と。床につけた右手の一部がそれに触れる。指の腹でなぞり床の一点に小さくて赤い線を描くと、手首から皮膚の色とは違うものが覗いた。ガラスをはめ込んだ鉄枷の中に色はなくなって、いつの間にか使い切っていた。
 少し離れた場所からする声らしき声が、反響しているはずもないのに頭の奥に響いている。返答すらも億劫で赤く塗れた床のタイルを隠すように踏みつける。けれどそれでも隠し切れない唇の赤を、まだ掠れた赤が残る右手で拭った。

 何年振りになるのか。自分の血を見るなんて。

 現状敵は人間でもないというのに。誰かの助力がなければ何もできないただのリキッドにこれだけ振り回されるのだから。
いくら冷酷だと言われても、誰かから生れ出ている事実は覆ようがないということらしい。

「遅い」

 聞き取ったものの左手首の皮膚に小さな痛みを感じて、試験官たる二人組に聞こえない程度の舌打ちを漏らす。試験が始まったのがこの島の外で言えば夕暮れ前、だからもう数時間は過ぎている。それを、まるで今始まったかのように試験官は言う。腹が立って仕方がない。
 通常の倍の致死量に耐えられもしない。ましてや政府の役にも立てていない弱い人間共が、何を勘違いしているのか。
 ふと余力もない頬の筋肉が片側だけ動いた。その理由は試験官にはとうてい聞こえるはずものない二つの音を鼓膜が拾ったからだった。

*

 扉の前に居座ることを始めたのがいつだったのか、時計がないので確認できない。石張りの床は冷たくじわじわと体温が落ちていく気がする。床先に触れる鞘先はわずかな振動によっって震えを起こしている。確かに扉一枚隔てている先。見えない室内で高速に動く何かの音が次第に鈍く、静かな時ばかりが流れ出すのを感じ。右足が一度だけ前に出る。

「やめとけ」

つばの隙間からみえた二本の足。気怠そうにしたままそう告げてくる。

「もういいんじゃろ」
「死んでもいいなら行けよ」

 止めはしない。そうジャブラは言うものの死んだら意味がない。これでも彼からは大げさだが大役を課せられている。

「まあ、あいつが死んで俺が頭ってのも気分よくねぇし?」
「勝てたことないもんな」
「うるせぇ、ほっとけよ」

 情報を流していることもその敵についても調べがついた。あくまで引き延ばしたのも、逃亡の可能性を残していたから。だがこれを試験と思って逃げるそぶりもない。当たり前か。人をいたぶる時、人間は自身のほうが強いのだと錯覚して周囲を確認することを怠る。上から与えられた最期の任務をただ楽しみ続けている。
 しかしそれもじき終わる。まだ少し身体は重いがなんてことはない。彼はその倍の苦痛を与えられている。でもそれが自身の任務にとって必要なものだからと甘んじて受けている。それが癪に障る。彼にもこれを任務といったあの長官にも。

 裏切者を処理するなら徹底的にやる。それが決まりというものだ。

 踏み出していた右足を佇んでいた元の場所へ戻す。そのまま足を持ち上げてつま先で二回、石張りのタイルを小突いた。
コン、コンと。小さなノックにも似た音が二回、廊下に響く。その数秒後。今度はごとりと重みのある音がする。ほかでもない閉め切られている扉の中から二度。聞こえて音を合図のようにして扉を開く。
 訓練場とされるそこはテーブルやベッドなど生活に適したものは置いていない。そのかわり、島中に使われる石のタイルの中で特殊なものが使用されている。
液体を吸い込み素早く気化させることのできるそれはつなぎ材として含まれる成分の影響、気化させる液体の関係で取り換えも早い。上階に建設できない。取り壊しが可能な下階のみでしか使えない特殊な部屋でもあった。
 血の匂いを嫌うのは能力ゆえに嗅覚が鋭敏であるためだ。だがたとえ能力のせいだとしても、この匂いを好むのはこの世界のどこを探しても本能に従順な動物のみであるはずで。いまこの時だけは、その例外があるというだけである。
 ひどい匂いだ。それ以上に形容しようがない。吹きあがったばかりの赤を被り、上から下まで塗れた姿。すべての色を混ぜ合わせ、完成される色にのせられた赤色は再びしみ込んで消えていくようだった。四つに分かれた人間であったものを一瞥した後、

「聞こえたようで何よりじゃな」

そう、尋ねると、

「……耳はいいからな」

 彼の瞳が、治まり効かないままにこちらの姿をとらえるのを見たのである。

 本能が危機を知らせる。特に、血のにおいが充満するこの場所に、耳も目も鼻も利く男が二人いる。もしいま、数分前の自分と同じように足を踏み出していたら。確実に首に穴が開いただろう。見える見えない以前に見ようすることすらできなかった。いつ枷を外していたのかも、いつその右手が武器に変わったのかも見ることができなかったことには、自身の肉体の状態を差し引いてもあってはならないことだった。

「バカ野郎ガ、」

 普段ならあまり聞かない言葉が聞こえる。けれどその言葉を口にする人物は決まっていた。決まっていた、はずだが声の主はどうやら違った。
指銃を止めたことへの礼など、言うだけ無駄だ。見ようとすることもできないのなら、不要でしかないからだ。
 爪先が首の皮膚に届こうとする手前で冷たさも熱さもない弾丸が止まっている。形成される弾丸が崩れていく。手首をとらえ固定する別の右手を振り払われると距離をとるためにだろう、躱されると知っていて上段蹴りで蟀谷を狙う。
 当然のように腕を立てるのを見越して威力をあげ、鉄の硬さと同義な一蹴をその腕に食い込ませる。
 思いのほか距離は開き、数歩床を弾いて蹴り飛ばされた威力が消えるころには四肢が床に触れていた。

 呼気の乱れは少ないものの、人間の呼吸にしてはやけに早い。というのは理解できた。

 乱れた黒髪を払うことも、赤く塗れた色を拭うこともなく、再び触れている床に今度は爪を立てた。床が削られるということはなく、耐えかねて圧し潰れていく。顔を上げ、こちらを見るその瞳には先ほどと同じく”敵”が見えている。

「ああなるとは聞いとらんな」

 ああ、だから二人だったのか。と一人で理由が完結するが、それだけですべてに納得したわけじゃない。
 まさか、そのためにこれを任務だと、あの男は言ったのか。それを知っていたから、彼は条件を提示したのか。

「知ってたのか」
「無理だろうが」

 二つ先の答えが示すものがわかって、それ以上の問いが失われる。

「あいつが、降りることなんてあるかよ」

 彼がこれまで請け負った任務を放棄したことなんて、一度もない。自分も、そして隣で薄ら笑いをする彼も。問う理由がない。それはどんな理由をつけたところで、憧れを抱いた時点で決まっている。
 肌を焼いてしまうような、射殺せるようなあの瞳をまだ見る自信がない。けれど震えを起こす身体の中に生まれるものに恐怖は少ない。

「…それもそうじゃな」

 彼がやるというのなら、その背中を追うものとして、応えるのが当たり前なのだから。


**

 そうと決まれば長引くのは不利というものだ。いくら気が触れているにしろ奥底にある意識さえ掴むことができればそれで終わる話、のはずなのだ。ただし、その意識がいまどこまで深いかわからない穴倉に潜んでいるのかは見当もつかない。
ようは加減などと考えていると命がないのだ。
 どれだけの余裕を持っていようとも敵を前にあれほど穏やかに上体を起こす姿を実は見たことがなかった。いつだって彼は隙の一つも見せない。見せるのそれが罠か誘いであるときだけ。
 それがふと過って、踏み込みがわずかに遅れる。遅れたのはなにもそれほど大きな時間ではない。瞬き一つするだけのとても小さな時間の遅れ。賢くも狡い男にもそれが伝わったようだった。
 先ほどの特攻を倣い今度はこちらから先手を打つ。聞こえもしないはずの鎖の擦れるような音が先を行くジャブラの背後から聞こえていた。
剃による加速のついた接近ではなく、己の脚力のみでの接近で単純な速度に優劣をつけるほどではない。
 それがなぜ先手となるのか。今の敵となる彼の思考をジャブラは読んでいる。
本能に覆われるその中にほんの少しだけある理性が消えることなくもつ戦いの癖を彼はしっていた。
 身内との訓練で彼は移動系体技で真の意味での速度を見せない。それは彼の道力における関係上、自分より低い道力の、体技の初動が見えているためである。どんなに相手が先手をとり、攻撃、回避の体勢をとっても彼には見えている。だから、ここで体技を使うのは言ってしまえば不利なのだ。相手の初動が見えるということはその動きに合わせて攻防の選択肢を変えられる。
 けれどこちらには先手をとることができても、相手の動きを見切るなんてのは厳しいのが事実。

驕りともとれる行為の意味を言うべきか。といっても、その理由はなにも難しいことじゃないのだ。

 身体の傾きとともに黒髪が揺れた。わずかに下がる一方の腕の先から赤い滴が伝っている。ついには指先を離れる滴は重力にならい落ちていく瞬間を確認してはいたものの、滴が床に小さな花を咲かせる前にはその余裕も消えてしまう。突進を変更し、右足を踏み込むとそこで一気に加速する。蹴り上げるタイミングを合わせ加速と同時に本能に従う。
 広がる身体の体積を加速の直前ぎりぎりまで抑えて抵抗をなくし、加速の勢いを殺さず、そして威力を殺すことなく。望みのとおり先をとったのはジャブラではあった。

「"群狼 "」

 群れを薙ぎ払うに等しい一閃を同じく獣の皮をかぶる彼も読んでいた。本能にかぶせた中にまだ理性があることを認識し口角が上がる。
 このままやりあうこともまた面白いのではないのか。あの生意気な男の顔が悔しさで満ちていく様を見たい気分ではある。

「いいねぇ、さすがだぜ」

 賞賛の言葉を彼はきっと覚えていないだろう。だがいまだから言えたのだ。彼が、自身の敵を「一人」だと認識してくれたから、
 勝利を掲げる孤高の隼は、同じくも地を行くであろう群狼をたやすくかき消してみせる。けれどその群れに潜むのは大地のみに生きる者たちだけにとどまらない。一目で見ればまるで星屑が地に降るようだった。
 光の少ない室内に煌びやかさを強めるもの。地を行く獣で足りぬなら同様に空を駆ければいい。
 押し負けた鎌鼬が形を変える。風によって散らされる花弁のように細切れに、そして確実に隼を仕留めんとする刃の雨に。
 仕留められた隼がさらに散って無数に刃の雨を増やしていく。斬撃の雨の中を無傷で通れるものなんて、この場には一人しかいない。

「遊んでやってもいいがな、俺の”相手"は違うんだよ」

 降りしきる雨がやむ直前。鎌鼬が擦れあい掻き消したであろう言霊は乾いた音を響かせる瞬間にのまれて消える。懐に入り込んだ右掌の感触に確かな手ごたえを感じて戦闘体勢を解いた。ぐらりと支えがなくなった身体を抱き上げることができるとそこでやっと息が吐けた。

「一歩間違えれば大問題じゃな」
「うるせぇ、てめぇが証人だろうが」

斑を残すカクが同じように息を吐いたのを見て、負けじと鼻で笑ったのである。






(加筆:2→)


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