CP9小話


□共犯者
2ページ/2ページ



 美しいという言葉を贈ったことがある。そのほとんどは今世稀に見る美女だったり、その辺の若い娘だったりとさまざまだ。だが今日にまで、同性に向けてという意味ではたった一人だけである。踊りを魅せ、滴を煌かせる美女も、笑顔が眩しく、そして優しい町娘も、この場所にはいない。いないのだけど。それに近い言葉を口にすることは後にも先にも彼だけなのだと思う。
 事前準備の片手間はすでに終えた。あとは己の好きな機を待つだけ。そうはいっても、その好機をつくることは自分の仕事ではない。あくまで一度きり。手を貸すといっても本当に少しだけである。
利き手に反した指先が薄く見える氷床に触れた。末端の微弱な熱によってジワリと溶けたもののすぐに失せて、同類と見ないものを飲み込もうと冷気が這い上がる。指の第一関節にたどり着くより前に指を遠ざけると、表面を覆う膜が取り戻しかけている熱に負けて再び溶けていく。指の腹同士でこすり合わせ、かすかに残っていた不確定要素が排除されていることを確認する。
 欠片が宙を舞う。氷膜は密着していた靴底からはがれてゆっくりと円を描いている。欠片の導く行き先を追いながら、突如して発生した突風が大気の状態を悪化させていることを知る。彼もそれは承知だ。速度を上げようと思えばこれ以上にあげることはできる。でもこれ以上にできるのは今じゃない。たとえ活動限界の一歩手前だろうと、それだけあれば十分という判断らしい。
後のことを考えていないのか、それともこちらに丸投げなだけなのか。いずれにしろ時機と見たのは今だということ。
 人間の体表温度は風の有無で大きく変動する。高温においての風と低温においての風。どちらも度を越せば人間には毒以外に他ならない。だからといって限界を超えなければいいというわけじゃない。極寒地帯に等しい場所での猛吹雪がどれほど身体に影響を及ぼすものなのかを知らないなんてことはない。体内温度の差がなくなり、すでに息を吐いても空気に変化がない。それだけの低体温。これは思っていた以上に限界が近そうだと、情報を修正し、右手を掲げた。まるで遠い月を掴むかのような、そんな仕草だった。

 思いのほか、いやむしろ。気づかないふりをしていたのかもしれない。長年の訓練で得た自身の身体の限界点。それを見誤ったことはこれまで一度としてなかった。疲労をため込むことの危険を知っている。身体に嘘をつき続ける限界を知っている。意識すればするだけ身体が嘘だと突きつける。今になって、それが甘えだと自覚して。その原因が何かを考えなくもわかっていて。空中の、絶対に聞こえない背後の男に向けて、「あんたのせいだ」と口からこぼれてしまった。

「"乱・白"」

 跳ね上げた身体にさらにひねりを加え、三日月を生み出す。打ち出す瞬間、身体の向きを変え、三日月を生み出した右脚から主軸を変更する。勢いを殺すことなく左足から二つ目の三日月を一つ目の三日月めがけてぶつけた。威力としては前者が圧倒的。
 だが、嵐脚はコツさえ知っていれば、誰にでも弾くことも分断することも容易だ。無論、そんなことをこれまで試したことはない。ただ、ここでは大きすぎると判断したからだ。そこまでの器用さがないのはこの状況のせいにはしたくない。
 自分の知る人間にそれができるというならば、やれないはずはない。太陽のない室内は確かに、言いようのない暗闇がある。けれど今は。室内を覆い尽くす鏡がある。わずかな光を跳ね返し、さらに跳ね返して照らす大きな鏡。その中心に降り注ぐことを雨というには少し違う気もした。白雨のごとき刃を雪や雹にたとえることも今しか叶わないのではと思ったのだ。
 当然。威力をわざと殺した無数の刃を質量をもって耐えうる選択をしてくるのを忘れたわけではない。むしろ狙った。空中で動き回ることに長けていても両足をつかうということは移動手段よりも攻撃手段を選んだことになる。両手には自重を支えるものなければ、天井には掴める場所もないのだから。ただの力押しなら、それが来ると踏んでいた。
 確実な一撃は、敵の即死を狙ったものにほかならず、狙うは当然頭部か心臓である。内臓をえぐられるだけでも致命傷ともいうが、速度を上げるとともに先端の鋭さを増していくのはそのいずれかしかない。
 空中でも鉄塊は機能する。ただし、誰かと違ってそれをしてしまえば数秒は何もできない。ましてや通常とは異なる環境下で肉体に硬化をかけるのはリスクが高い。解除後にすぐ動けるかもわからないうえ、この状態ではどこまで硬度を保てるかもはっきりしない。でも、ここで死ぬ気は毛頭ない。口にするのもいやだけど、今回は運がいいのだから。
 迫る氷の刃は数多の暴風に削り取られながらも耐え抜いてたどり着いてみせた。威力は上々。しかし結局は二番手止まり。もしやそれすらも烏滸がましいか。この世で美しいと言わしめるものは一つでいい。
 一度だけという約束は守った。あとはなにもしない。しなくていい。けれどこれは、少しばかり。というか大分。大げさではと言いたいかもしれない。
 操る当事者がいるにしても、たった一人のためにこれだけのものはいらないだろう。蜷局の巻いた氷の竜なんて、貴方が考えたにしては滑稽だ。と、思っていた。一瞬というには長く、一秒というには短い時間。それだけあれば十分ではある。まさか手を出すと思わなかったのか、制御が鈍っている。今だれを相手にしているか。見るべき相手は誰なのか。力の欲におぼれて忘れてしまったのか。忘れてはいけないことを彼は見落としてしまった。
 高度が下がるとそれだけまた冷気が身体に這い上がってくる。当初の予定では後数秒早いはずだったが、ここまでくればその犠牲も作戦のズレと認識せざるを得ない。まあ死なないのだからいいかと、動く右腕とそして身体に命じた。
 弾き返すには至らない防ぐという一度の攻防を終えて、壁となった何かは罅を広げて砕けようとしていた。砕け散ろうとする破片がわずかに弾道の邪魔をするが、今更気にするものでもない。この能力を初めて見たわけでもない。何年も前から、数えたこともないくらいに見て、覚えて、触れてきた。消し飛ばせないわけがない。

「"撥"」

 見えない銃弾が生まれると同時に落ちた高度に比例して冷えすぎた冷気が腕の機能を阻害する。衝撃に反応して生まれた氷の華は鋭くて、衝撃を抑え込んでいたにもかかわらず肘にまで及んだ。握ることもできず、針山のように皮膚を突き刺す。色白の肌は赤く色づき、滴っていた。
 着地と同時のわざとらしい短い拍手をうけてもなんとも思わないしうれしくない。結局命中はしたが数センチずれていた。空中で塵になりきれなかった氷の礫はまだ降り舞っていて、ところどころ皮膚に落ちてはようやく消えていった。

「お疲れさん」

 言いながら近づいてきて死角に入らせた右腕に触れた。神経が切れたわけじゃないから、数日すれば元に戻る。凍傷と裂傷。そのどちらも残ってしまうけど。

「残るかな、傷」
「どうでも」
「そう?」

 任務に支障がないならそれでいい。ああでも、この後の任務には支障をきたすわけで。面倒だから野良犬に回しておこうとふと思う。

「残念だなぁ」
「結果が?」
「いやこっち」

 指したのは絶命した男のほう、ではなく。先ほどから触れている右腕。傷が深いわけでもないが、室内の低温のおかげで出血も止まっている。正確には凍って止まってる。その分溶ける時間も早くない。未だに右腕に残るのは見たこともない氷の華とそれに色をつけている赤い華の痕。

「綺麗だから」

 消えるのもったいないから。そう続いた。

「…残りますよ」
「いやこれ氷だよ」
「──貴方がつけたんでしょう」

 俺に、と。そう言って右腕に触れる彼の手に左手を重ねた。ここを出れば氷はすぐに解けてしまう。でもきっと、貴方の力を借りたことでできた傷が残ることに変わりはない。
 この先決して消えない傷。それをつくるきっかけも、その選択をした自身も。互いだけが理由を知る「たいしたことのない傷」。


「ミスをしたのは俺なので」
「じゃあ始末書よろしく」
「それは断ります」

 手を貸したのだから、手を借りたのだから。もう共犯でしょう。交わる視線とともに彼が口角を上げるのが見えた。


前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ