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□目は口ほどに
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薄ら白い空の色が夜明けを伝える。布団から起きあがると、春の冷たい空気が身にしみて、名無しさんはぶるりと体を震わせた。

澄んだ空気に真白の息が浮かぶ。
このまま起きるかそれとももう一度寝るか、名無しさんはわずかに逡巡したが頭は寝起きの割に冴えており、結局顔を洗うことにした。意を決して襖を開け、井戸に向かう。踏みしめるたびに、ぎっと鳴る床板が氷のようだ。

鳥もまだ鳴かぬ早朝。女中らが起きるまで半刻はあるだろう。
見咎めるものもいないと自然に駆け足になる。角を三つ曲がりきり、裏の井戸にもう少しで着くというところ。

「ぇ」

あっというまだった。脇の襖がからりと開きぐっと腕を引かれた。予期していない動きに逆らうこともできず、名無しさんは部屋の中につつんのめりながら入ってしまった。
ぱんと軽い音がして、後ろで襖が閉じたことを知る。
困惑しながらも視線の先が着物の裾をとらえた。そのまま見上げると包帯に包まれた手が 名無しさん の腕を掴んでいる。

「随分と、早起きではないか」
「大谷様」

名無しさんが名を呼べば「ヒヒ…」と引きつった笑い声で大谷吉継は答えた。
豊臣が誇る知将。業の病を患いなお、その知謀は閃き、戦々恐々と他国に名を馳せている。
しかし豊臣秀吉や竹中半兵衛、そして石田三成などを除き、病を患ってから家中の者と顔を合わせることは滅多にない。

その彼が何故ここにいるのか。そもそも彼の部屋は別の場所ではなかっただろうか。
名無しさんがそう思っていると、言いたいことがわかったように、にっと笑う口が開いた。

「戦もなく暇であろ。左近に碁の手解きをな」

ここは島左近の部屋だった。彼もまた三成の腹心として目をかけられている一人だ。まだ薄暗い室内に碁石が並ぶ基盤がある。その向こうに乱雑に散らばる書簡や書き損じがそのまま床に捨て置かれており、確かに大谷の部屋らしくはない気がした。

「しかし、その左近様はどこに」

名無しさんがいくら見ても部屋の主がいない。仮にも上役である大谷を差し置いてどこへ行ったのか。

「早に逃げられた。夢の国にな」

と、顎でしゃくるは奥の襖。向こうからそれは大きないびきが聞こえる。

「それは」

「残念でしたね」と続ける 名無しさん の手を引いて碁盤の前にぎこちない動きで腰をおろす大谷。自然と 名無しさん も座ることになる。

左近がつぶれたあとそのまま一人碁に興じたが結局寝てしまい、今しがた目が覚めたということらしい。
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