長編

□君が微笑むだけで[5]
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あの日は、そう、中2の秋の夕暮れだった。
私はバレー部の他校との練習試合の帰りで、自転車で家に向かっていた。
いつもは大通りを通って帰るが、その日は何となくこっちの方が近いかなぁと、河川敷の堤防を通って帰る。疲れていたので、特に脇目も振らず自転車を走らせる。
と──、少し遠くから不思議な音が聴こえる。
いや別に不思議な音では無い。楽器には詳しく無いが、吹奏楽とかでよく聴く音だ。ただ、私には不思議に聴こえた。
何となく、気になって自転車を止めて、きょろきょろと周りを見回す。
「────」
音の正体は、ちょうど私の反対側、対岸の堤防の上にいた。
あれは、確か、サックスというやつだろう。
向こう側で、私と大して歳も変わらなそうな少女が、夕日に照らされて、サックスを吹いていた。
「────綺麗、だな」
心から漏れた声だった。
音楽のことなんて何もわからないので、そのフレーズが何か知らないし、上手いのかさえ私にはわからない。
ただ、それを私は、美しい、と思った。
感動することは何回かあったが、そういうふうに漠然と、美しい、なんて思うのは生まれて初めてだった。
しかし、それと同時に、なんだか悲しくなった。
その音が、彼女の姿が、なんだか悲しそうで、私も悲しくなった。
彼女が泣いているかは、距離的にわからなかったが、泣いているという確信があった。
助けて欲しい、見つけて欲しい、そんなふうに言っているような気がして、胸が圧迫されて苦しくなった。
「─────っ」
その光景に耐えきれず、私はその場から逃げ出すように自転車を走らせる。
彼女は目を瞑って演奏していたから、私には全く気づいていなかった。
ならば、このまま私が忘れてしまえば、この出会いは無かったことになる。
がむしゃらに自転車を漕ぐ。
しかし、その光景は私の網膜に焼き付いて、音が耳にへばりついて、離れることは、忘れることはできなかった。

それは、どうしようも無い後悔、だった。
その日の後、何度かその河川敷を通ったが、あの少女に会うことは無かった。
名も何もかも知らない少女であったが、彼女を救えなかったような感覚があって、見捨ててしまったような感覚が心にまとわりついていた。
あの時、少女は意図せずともその場に居た私に助けを求めていたのだ。
そこから逃げ出した自分を許すことなど出来なかった。


そこからしばらく経ち、私は今の高校に入った。
ある日、教室に忘れ物をしてしまい、部活を途中で抜けて教室へ戻る。
その時に、空虚な音を聴いた。
はっとして、目を上げると、教室から見える、渡り廊下から外へ向かって、サックスを吹く少女がいた───あの時からはだいぶ大人びたようだが、間違い無く、あの日見た少女だった。
「─────」
美しい、とは思えたが、やはり空虚だと思った。
あの時の切実な助けを求める音では無く、感情も何もかもを殻に閉じ込めてしまったような音だった。
あぁ、と思う。
やはり私はあの少女を救えなかったのだ。彼女の顔は、目は、あの時のように悲しそうであった。ただ、空虚な音が、もう彼女が感情を音に乗せるのを辞めてしまったことを物語っていた。
またあの後悔が渦巻く。自責の念を感じて、吐きそうになりながら突っ立っていると、部活の同期から声を掛けられた。
「ちょっと、戻ってくるの遅いよ〜」
「あ、あぁ、ごめん」
「何見てたの?」
と聞かれて、渡り廊下の方を指さす。
「あ〜金村さんだっけ、すごい美人さんな上にサックスも上手いし、運動も勉強もできる、おまけにフレンドリーで友達も多い、言うこと無しの絵に描いたような人だよね」
「そうなの?」
「え、知らないのに見てたの?」
なにそれ〜、と言いながら、体育館に戻ろうとするので、私もそれに着いていく。
私が見てきた、彼女のイメージとはどうもフレンドリーという言葉は結びつかなかった。
何となく、憶測ではあるが、殻に閉じ込めてしまったような音を聴いた私には、それは嘘のような気がしてしまった。
「──金村さん、か」
その日、私はやっと名だけ知ることが出来た。


そして事件があった日に戻る。
そうだ、私は無意識にいじめの間に割って入ったのでは無い。
いじめの現場を見た瞬間、あの少女の、金村さんのことを思い出したのだ。脚は震えていたけれど、ここでまた逃げたら後悔する、と思ったのだ。
だから、先生が仲裁してくれた時、先生の後ろから大丈夫?と、ひょっこり金村さんが出てきた時、心臓が飛び出そうだった。
その後、庇ってくれた時も、私は心が痛かった。
私が見捨ててしまった少女が、私を助けようとするのは見ていられなかった。

「────」
再び今、目の前にある夕暮れを眺める。
今日の金村さんを見た時、驚きと同時に、私なら彼女を助けれるかもしれないと思った。ほとんど罪滅ぼしのようなものかもしれないが、彼女は死を受け入れようとするかもしれないが、私はもう絶対に逃げたくは無い。見捨てることないんてしたくない。
私は、あの日、美しいと思ったものを壊したくない、失くしたくない。
その為に、明日も彼女の元へ行こう、と私は決意を新たにした。
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