伍
□降り注ぐ
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沙栄子は、抱き着くように名無しさんをムギュっと腕の中に包み込んで、笑顔で手を振って一瞬で消えた。
「……………」
久しぶりに感じた、誰かに抱き締められる感覚。温かさ。安心感。
名無しさんは、また人形のようにそこに立ったままになった。
どれくらい時間が立っただろうか。落ち着いた頃には、陽が傾き始めていた。
名無しさんは、部屋に戻って浴衣と手拭いを手に取ると、風呂場へ向かった。
ぬるくなっていると思っていたが、熱いのが苦手な名無しさんには、ちょうどよかった。脱衣して、左腕にかからないように気をつけながら、身体にお湯をかけた。
「……………」
何となく、実弥の匂いがした気がした。名無しさんは、涙が頬を滑り落ちていくのを、何度も何度も頭からお湯をかぶって気付かないふりをした。
風呂からあがった名無しさんは、自分の部屋には戻らず、実弥の部屋の前の廊下に、腰を降ろして座った。まだ、髪が濡れている。
そして、そこから夕焼け空を見上げた。右端には、この屋敷の立派な松の木が視界に入っている。名無しさんは、壁に背中を預けて、ずっと空を見ていた。
ずっと、泣いていた。
何時間経っただろう。目が腫れて重たくて仕方ない。こんなに泣いたのは、いつぶりだろうか。小さい頃は、よく泣いていたけれど。
「寒っ…」
名無しさんは全く考えていなかった気温の差を急に身に感じて、身震いした。まだ痛む左腕は使えず、使える右手で自分の肩を抱き寄せて背中を丸めた。
「違うっ…ちが、う、……!」
あぁ、どうして涙は枯れないんだろう。自分で自分を抱き締めたら、こうじゃない、と、余計に悲しくなって自分を否定していく名無しさん。
「実…弥っ…、…」
ふわっ
ーーーーあぁ、どうしてだろう。あなたはいつも、私を助けに来てくれるんだね。ー
「泣いていいのは俺の腕の中だけって言ったろォ。」
「実弥っ…!」
勢いよく顔を上げれば、そこには実弥の銀色の髪があった。実弥は、キツく抱き締めながら擦り寄るように頬を寄せていた。
「実弥っ、顔、見えないっ!」
「あ?」
身体を離して少し空間をとった実弥と、至近距離で目が合う。
「実弥ッ…おかえりなさい!」
「ただいま。」
ポロポロと涙を零す名無しさんに、目を細めて優しい笑顔を向けた実弥。名無しさんは、涙もそのままに、早く伝えなければと全然纏まっていないが、言葉を紡ぎだした。実弥の新しい羽織りの胸元を、ギュッと強く握った。泣き過ぎてうまく息が吸えない。
「あのねっ、あの、ね、ッ」
「落ち着けェ。全部聞くからァ。」
「あのねっ、私、実弥が好き!大好きなのっ!もう離れたくないよぉ…いつも一緒がいいの…ッ!寂しかった…実弥が触れてくれないと、涙が出るの…悲しくて、悲しくてっ…ダメなのっ…」
過呼吸になりかけていた名無しさんの頬を、優しい手つきで包み込む実弥。抱き締めている手は、名無しさんの背中を摩っていた。まるで、子どもをあやす親のようだ。
「ね、実弥?もう一度、愛してくれるっ…?」
涙と嗚咽でぐしゃぐしゃな顔は、本当なら見せたくない。どうしようもなく必死な名無しさんには、もうそれを気にする余裕は無かった。
実弥は、名無しさんの心からの想いをやっと聞けて、胸がいっぱいになって顔を近付けた。額と額が、コツンと当たる。二人共、見つめ合ったまま。
「俺は、最初から名無しさんを愛してんだろうがァ。名無しさんも、俺のこと、愛してんだろォ?手紙にそう書いてあった。」
「あ……、」
ニヒヒッと笑いを含んだ笑みを浮かべる実弥と、思い出した名無しさん。恥ずかしくて言葉に詰まった。あの時は、もう二度と合わないつもりだったから、素直に書けた。でも、口に出したことはまだ無い。
「……実弥、」
「ん?」
「愛してる。」
目を閉じて顎を前へと突き出した名無しさんは、そのまま実弥の唇と自分の唇を合わせた。生まれて初めて、自分から欲しがった瞬間だった。
「……………………」
唇を離した名無しさんの眼前には、目を泳がせて、顔をほんのり赤くした実弥がいた。
「やべェな……」
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