裏
□愛しているのは貴方だけ
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六波羅から出た弁慶は、すぐに熊野に戻ろうと思ったが途中でいつも看ている患者達にあった。
早く別当邸へ、望美の元に行きたかったが、患者達をほってはおけない。
数日かけて大量の薬を作り、歩けない患者の家を回った。
自分は望美の傍にいると決めた、だから、もう五条へは帰って来れないかもしれない。
そう頭にあった。
別れは惜しまれたが、何も知らない患者達に「奥さんと仲良くね」と言われて少し心が楽になった。
もう、残すものはない、振り返ることはない。
ほとんど休むことなく馬で駆けてきた弁慶が別当邸に戻ってきた時、出迎えてくれたのは予想外の人物だった。
「…随分遅いお帰りだね」
まるで炎のような燃える赤い瞳に、赤い髪。
正直、顔もあまり合わせたくないと思っていた甥、ヒノエだった。
弁慶は牽制のつもりで軽く睨みつけてみたが、この甥には何の効果も無い。
こういうのを同属嫌悪というのだろうか。
大切な愛しい望美を、今現在手にしている男。
血が繋がった叔父と甥でも、お互い愛しい女を譲り合えるものではない。
「…君が出迎えてくれるなんて思っていませんでしたよ」
「別に出迎えてやったわけじゃない」
「そうですか、ではそこをどいてもらえますか?僕は望美さんに用があるので」
別当邸の入り口にヒノエがいて道を塞いでいる。
避けようと思えば、簡単に避けて入ることは可能だが、正々堂々と入りたかった。
「望美は俺の妻だよ。用があるなら俺が聞く」
「望美さんに直接話したいんです、……熊野別当の妻に手を出したりはしません」
「……あんた、どういう風の吹き回しだ?」
前に会った時はヒノエの妻となったことで、敵意を剥き出しにされていた。
それが、ほんの少しの月の間になぜこんなに丸くなっている。
弁慶がどれほど望美のことを愛していたかはヒノエだってよくわかっている。
同じ女を愛したからこそ、わかることもある。
「別に何も謀ったりしていません。…ただ…決めたんです、望美さんの傍にずっといると…彼女の幸せが僕の幸せだと」
「弁慶……」
「望美さんに、会ってもいいですね?」
「…あぁ」
目を合わせることなく二人がすれ違う。
普段からほとんど気配を感じないような動作をする叔父をヒノエは苦手だった。
父の弟だと言われても、自分とは八つしか変わらない。
叔父だとは思えなかった。
年が近いせいで甘えるなんてこともなく、お互いがお互いを持て余していたのかもしれない。
どう接したらいいのかわからない、それは弁慶もだ。
兄にお前の甥っ子だぞと、初めて会った時はまだ髪も生え揃わない赤子だった。
成長するにつれてどんどん生意気になる。
女性に対しての接し方なんて、これは血筋だとしか思えない。
きっと、もっと別の形で出遭っていれば親友にでもなれたかもしれない。
「…だから嫌いなんだよ…あんたは…俺と似てるから…」
遠ざかる弁慶の背を見送りながら、ヒノエはぽつりと呟いた。
「望美は…あんたに返す」
この言葉を弁慶、本人に伝えてやらないのは悔しさから。
いつだって、弁慶の方が一枚上手なのだ。
それを年のせいだなんて言わせない、こっちにも誇りがあるのだから。
いつか、弁慶を越す男になってやる…とヒノエは心に誓った。
与えられた別当邸の一室に、望美は一人いた。
別当の妻の部屋だけあって、なにやら煌びやかな置物が置いてあり、とても広い。
広すぎる…そう望美は感じた。
弁慶との暮らしは五条でも小さな庵。
こことはまるで比べ物にならないぐらい質素なものだった。
けれど、そんな暮らしでも望美は嫌だと思ったことはなく幸せだった。
近所の子供たちの遊び相手をしたり、弁慶の手伝いをしたり、忙しい毎日だったが満たされていた。
ヒノエの妻となってから、一度でも心から笑えただろうか。
いや、笑えていない。
『…弁慶が来たら…、一緒に京へ帰りな』
ヒノエはそう言ってくれたけど、望美は悩んでいた。
今更、弁慶にどう頭を下げられる。
それに、結局自分は余計にヒノエを傷つけてしまったのではないか。
自己嫌悪で吐気がしそうだった。
「…私は…」
トン、トン…
襖が叩かれる音がした。
「はい、ヒノエ君?」
返事が無い。
襖に映る人影が、女性でないことを現していて望美は首を傾げる。
女房ではない、ヒノエでもない。
一体誰だろう、と襖に近づいた。
「誰だか確かめずに開けるなんて、無用心ですよ」
望美が襖を開けようとした瞬間に戸は開かれた。
そして、自分の目の前にいる人物に望美の身体が固まった。
「…べ…けい…さん…」
「…お久しぶりですね、望美さん…」
こうして顔を合わせるのは、かなり久しぶりだ。
前に会ったのは…弁慶が望美を無理やり抱いた時。
気まずいまま別れて、それ以来の再会だ。
「…もう、君は僕の顔なんて見たくもないかな…」
「っ…そんなこと…」
そんなことあるはずがない。
確かに合意ではない行為に迫られたことは、悲しかった、辛かった。
でも、嫌ではなかった。
「会いたかった…ですっ…ずっと…」
「望美さん…」
今すぐ望美を抱き締めたい衝動にかられたが、それはできなかった。
今の望美はヒノエの妻なのだから。
そして、弁慶はそれを受け入れて望美の傍にいると決めたのだから。
「…望美さん」
「はい…」
「僕は…君に伝えたいことがあります」
「何ですか…?」
一度軽く瞳を閉じて、息を吸うと弁慶は言葉を続けた。
「…君が好きです…他に妻なんて娶らない。僕はこの命が朽ちるまで…いや、朽ち果てても君を愛しています」
「べん…け…さんっ…」
じわりを、望美の瞳に涙が浮かんできた。
「それだけ…君に言いたかったんです…。君が幸せなら、僕は幸せです」
微笑む弁慶に、望美は返す言葉を失ってしまった。
「ヒノエ君はもういいって言ってくれたの、だから一緒に京へ帰りましょう?」なんて言葉言えるわけない。
いえれば楽だっただろう。
でも、自分がどれだけ弁慶とヒノエという二人の男性を傷つけてしまったか。
それがわからないはずない。
取り返しのつかないことをしたんだと、もう戻る事なんてできないんだと。
泣く資格なんてないのに、涙が止まらない。
「望美さん…?」
俯き、涙を流す望美にそっと弁慶は手を伸ばす。
しかし、その手は望美によって振り払われてしまった。
「っ…ごめんなさいっ…!!!」
「望美さん!?」
弁慶を横切り、望美は部屋を走り出た。
もちろん弁慶はすぐにそれを追いかけたが、望美が別当邸から外に出てしまい見失ってしまう。
まだ日が高いはずだが、雲が太陽を覆っているために光をあまり感じられない。
「くそっ…望美さんっ…」
何か思いつめた顔をしていた。
弁慶の額に嫌な汗が走った。
* * * *
誰かのために、大切な人のために何かしたい。
そう思うことは人のごく普通の心理なのかもしれない。
でも、誰だって追い詰められれば自分のことで精一杯になってしまうの自然のこと。
それが赤の見知らぬ他人なら誰も声をかけもしない。
すれ違う人々の中で、望美を気にかける者はいなかった。
望美は、走って、走って、ただひたすら走った、振り返らずに。
さっきまであんなに晴れていたのが嘘のように、まるで望美の心を表しているかのように、次第に曇り雨が降り注いだ。
髪が濡れても、服が濡れても、けして止まることなく走った。
ドンッ
「きゃっ…!」
前を見ずに走っていたせいで、避けることもなく道行く人にぶつかってしまった。
その反動で、地面に尻餅をついた。
「おい!あんたどこ見て走ってるんだ!」
「…すみません…」
怒声を浴びせ、望美とぶつかった男性は小言を呟きながら去っていった。
望美を気にかけることもなく。
先ほどまではたくさんいた人の影も、雨のため隠れてしまった。
見渡すとその場にいるのは望美だけだった。
「っ…痛っ…」
立ち上がろうとしたら、身体に痛みが走った。
目をやると、手の平と膝から血が滲んでいた。
これぐらいの傷、戦をしていた時に負った傷に比べたらどうってことはない。
しかし、酷く痛みを感じる気がした。
ふらつきながら立ち上がると、望美は虚ろげに歩き出した。
結局…私がしたことは何なんだろう…。
『今までごめんな……弁慶と幸せに…』
ヒノエ君を傷つけて…
『僕はこの命が朽ちるまで…いや、朽ち果てても君を愛しています』
弁慶さんを傷つけて…
そんな私が幸せになんてなれない。
幸せになっていいはずがない。
たとえ、ヒノエ君が笑って私を弁慶さんの元へ見送ってくれても、弁慶さんが私が帰ってくることを望んでいてくれても…私はもう戻れない。
「……白龍……白龍っ…」
呟くようにその名を呼ぶ。
この京を守る龍神の半身の名を。
すでに白龍は黒龍と一体の応龍に戻って、この京を守護してくれている。
弁慶と暮らしていた時も、久しぶりに会えないかと何度か望美は白龍を呼んでみたが、応えかえしてくれたことはない。
雨に打たれてぼさぼさに濡れた髪が望美の視界を遮る。
「…っ…お願いっ…応えてよぉ…」
地面を膝につき、自分の身体を抱き締めるように腕を回す。
どうしようもない嫌悪を感じた。
自分の身体に。
無力で、大切な人達を傷つけてしまった自分に。
「は…く…りゅ…っ…」
大粒の涙が頬を伝い、雨と一緒に地面へと滑り落ちる。
すると、その涙が光り出したかのように辺りに目も開けていられないほどの眩い光に包まれた。
まるで望美を包み込むかのように光は輝きを放つ。
「……白龍…?」
「神子…」
「白龍なのね…!?」
光のせいで視界がほとんど見えないが、聞こえた声はたしかに知っている白龍のものだった。
「神子が呼んだから…会いに来た」
「…ありがとう…でも、どうして?今までも何度も呼んだことがあったのに…」
「以前の神子は…私がいなくても大丈夫、幸せそうだった。けど…今の神子は泣いていたから」
泣いていることにハッとして、望美は腕で涙を拭った。
辺りを包んでいた光が静まり、白龍と望美の姿が浮かび上がった。
この光のお陰なのか、雨にも濡れない。
まるで外界と遮断されているようだった。
「…白龍にお願いがあるの…」
「神子の願いなら、何でも叶えるよ」
「…私を…元の世界に帰してほしいの…。そして…もう二度と…この世界に来れないようにしてほしい」
弁慶さんとヒノエ君、どちらかを選ぶなんて私にはできない。
それなら私は…もう二人に二度と手の届かない世界へ…。
会いたいと、そう私が願っても決してもう来れないように、未練を残さないように。
「…神子は本当にそれでいいの?」
「うん…」
「神子がもうこの世界へ来れないようにするためには、神子の力を全部貰う必要がある」
「私の力…?」
「そう、神子や八葉は他の人間には無い特別な力を持っている。その力がないと逆鱗があっても時空は超えられない」
「じゃあ、その力を…」
「でも…その力を無くしたら、神子は本当にもう二度とこの世界に来れなくなってしまう……神子の心には迷いがある…弁慶のことを…」
「っ…!」
さすがに神たる龍神に気持ちを偽った所でばれてしまうのだろう。
望美の心は白龍に見透かされている。
「…迷いは元の世界に戻れば消えると思う…だから…お願いっ」
「……わかった」
望美を包み込んでいた光が空高くまで上ったと思うと、光はその場一帯を包んだ。
そしてその光が消えた時、望美の姿はどこにもなかった。
元の世界へ、遙かなる時空の中に消えた。
その瞬間、弁慶を初めとする八葉達や朔の身体に何か衝撃が届いた。
ある者は、気のせいかと思い、ある者は嫌な予感がした。
戦が終わった後に消えたはずの宝珠があった場所が熱く感じた。
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