長編
□抱き締めて、囁いて【番外編】
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「望美、いつまで怒ってるんだ」
「別に怒ってなんかいないよ」
そうは言いつつも、口角は下がり、眉はつり上がっている。
忙しい朝の一時。
リビングのテーブルで向かい合い座り、九郎と共に朝食を摂るのは日課だ。
仕事で帰ってくる時間は違うので、夕飯は別々になることが多いが朝食はいつも一緒に摂ってる。
望美は一日の出来事を九郎に聞いてもらっている。
それは、仕事で失敗して落ち込んだ話や、楽しい話や様々だ。
そして今朝の話は弁慶の話だった。
ここの所、望美と弁慶が会っていないということは聞いていた。
それが昨夜の晩に、弁慶から電話があって喧嘩したのだと言う。
怒っているのは望美だけだと思いながらも、九郎はこれ以上怒らすまいとただ話を聞いてやった。
九郎からしたら、娘に痴話喧嘩の相談をされている気持ちだ。
「弁慶だって悪気があったわけじゃないだろ」
「わかってるよ……そんなこと…」
ぴたっと朝食を摂っていた望美の箸が止まる。
俯いている顔は、暗かった。
「はぁ…弁慶も…悪かったって言ってたぞ」
「え?」
「俺に電話をかけてきた。…お前に電話に出てもらえないって、相当落ちこんでいたぞ」
「………」
「…まぁ、さっさと仲直りしろよ…」
そう言うと、
弁慶が悪気があったわけではないと、望美だってわかっている。
でも、それでも弁慶の言葉に頭がカッとなってしまったのだ。
こっちはずっと会えなくて、寂しくて、寂しくて堪らなかった。
それなのに、少しからかうように『僕に会えなくて寂しい、ですか?』だ。
そんなこと当たり前、寂しいに決まっている。
アメリカへ行っている時は年に数回しか会えなくて、やっとの帰国でこれからはもうずっと一緒にいられると思っていた。
結婚しようと、確かに弁慶は言ってくれた。
でも、もう帰国して半年…一体いつまで待てばいいのだろうか。
もしかしたら弁慶は、自分とは結婚する気はなくなったのではないか。
そんなことまで考えてしまう。
「…弁慶さんは……まだ…私のこと好きでいてくれているのかなぁ…?」
ポツリと呟いた望美の言葉が少し涙声になっていたことに、九郎は気がついた。
頬に涙が伝って、テーブルの上に雫が落ちる。
「…望美」
「会えないと…不安だよっ……会いたいよ…弁慶さんに…」
望美の背後まで回ると、九郎はそっと抱き締めてやった。
本当はこれは弁慶の役目のはずだと思いつつ、九郎は苦笑した。
どうしてこの二人は、お互い深く好き合っているのにこう擦れ違うのだろう。
喧嘩するほど仲が良いというが、それはまさにこんな感じだろうか。
泣き止むのを待って、九郎は抱き締めていた腕を解き、望美の頭を優しく撫でてやった。
まるで子供をあやすような仕草に、望美は少し照れたように笑った。
「…弁慶は今、大きな取引をしている最中だそうだ。…もう少ししたら時間もできるだろうから、それまで待ってやってくれ」
やれやれと思いながら、九郎は親友のフォローを入れてやる。
昨夜の電話をかけてきた時の弁慶は、明らかに落胆していた。
いつもの軽やかな口調もなく、声に覇気が感じられなかった。
電話なので表情は見えないのに、どんな顔をしているのかすぐに想像がついた。
『…望美さんを…傷つけてしまいました…』と、言葉を紡ぐ弁慶の落ち込みようは痛々しいぐらい伝わってきた。
だから九郎はこうして望美を泣かせた弁慶を怒れないのだ。
「…うん…弁慶さんを信じて…待ってる…」
「あぁ、好きなら信じてやれ」
好きだから、不安になる。
愛しているから、離れている時間が不安になる。
傍にいれないことが辛くなる。
でも、だからこそ信じよう。
大切な、愛しい人を、信じていこう。
* * * *
「ヒノエ、今日は早く帰らせてほしいんですが」
朝、出社した弁慶は迷わず社長室にいるヒノエにそう言い放った。
唐突な言葉にヒノエも目を丸くした。
普通、朝はまず『おはよう』と挨拶から始めるものじゃないのか、と。
それに、いくら甥と叔父の間柄でも、仕事中はそろそろ社長と呼んでほしいところだとも思う。
もちろん、ケジメはつけて二人きりじゃないときは『社長』と呼ばれてはいる。
だが二人きりのときは『ヒノエ』と、呼ばれている。
「早く帰らせてほしい…?」
おいおい、この忙しい時に冗談だろ…と言いたげにヒノエは弁慶に視線を向けた。
まるで、それを感じ取ったように弁慶は続けた。
「冗談ではないです、本気です。今日はどうしても早く帰りたいんです」
「お前…秘書がよく、そんなことを…」
「仕事より、大切なことがあるんです…って言ったら呆れますか?」
「……望美、か?なんだ、喧嘩でもしたのか」
図星を突かれて、うっ…と弁慶は顔を伏せた。
そんな弁慶に、ヒノエは呆れたような首を振った。
「仕事と女を両立も出来ないようじゃ、駄目だね」
「…僕は君と違って、割り切ることなんてできなんですよ」
「へっ、よく言うぜ。昔の女には全然優しさの欠片も持ってなかったくせに」
「…望美さんは特別な人なんです」
昔は、好きだと告白されては「まぁ、いいか」というぐらいの気持ちで付き合っていた。
でも、望美と出遭ってからは変わった。
人を愛する気持ちを知ったから。
初めて心の底から愛した人だから、特別で大切で、いとおしい。
「早く帰りたいなら、早く今日の分の仕事を終わらせることだな。そうしたら残業はなくなるんだ」
「…後から、他の仕事を僕に回すのは止めてくださいね」
「あぁ、今日はな」
「………」
今日はな、という言葉に若干引っかかりを持ちつつもとりあえず今日は早く帰れそうだ。
ふぅ、と弁慶も一息つく。
望美に会いにいける、謝りにいける。
早く、彼女を抱き締めたい。
弁慶は袖を捲り上げると、パソコンの前に向き直る。
早く仕事を終わらせて、一刻も早く会いに行こうと、気合を入れる。
さすがの弁慶は仕事をミスをすることなく進め、予定通り帰路につく。
車を走らせ、望美の元に向かった。
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