□愛しているのは貴方だけ
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望美さんが消えた。

『…ごめんなさいっ…!!!』と、そう言って僕の前から姿を消した。

すぐに彼女を追いかけたけど見失ってしまった。

途中で雨が降り出したけど、そんなことは構わなかった。

嫌な予感がした。

心臓の鼓動が早鐘のように早く打ち、嫌な汗が額に滲む。

急にあたり一面が光に包まれたと思ったら、空に望美さんの姿が浮かんでいるのが見えた。

僕は喉が枯れるほど、叫んだ。


「望美さんっ!!望美ーーっ!!!」


でも、僕の声は望美さんには届かなかった。

望美さんは僕に気付くことなく、空へと消えた。

どこへ消えたなんて…一つしかない。

元の世界へ…彼女の本来あるべき世界へと帰ってしまったのだと…。

全身の力が一気に抜けて、膝から崩れ落ちた。

泣いたって、叫んだって、望美さんはもうこの世界にいないんだ。

僕の心が氷のように冷たくなっていくような気がした。

放心状態の僕はいつしか意識を失っていて、気がつくと別当邸へと運ばれていた。

もうないのに、宝珠があった右手の甲が痛く感じた。

だるい身体を起き上げ、ふらつきながら立ち上がろうとすると、力が入らない身体は安定を崩しそうになった。


「おい、しっかりしろよ」


崩れそうだった僕の身体をすぐ傍にいたヒノエが支えた。


「…望美はどうしたんだ?」

「………」


無言を貫く弁慶に、ヒノエは軽く舌打ちをした。

はぁ…と溜息を零すと、胡坐を掻いた。

ヒノエに促されて、弁慶も腰を落とした。


「…望美は熊野にはいない…、烏達に探させたがどこにも…。一人で京へ帰ったのか?」

「………いえ」

「じゃあ、どこにいるんだよ」


煮え切らない様子の弁慶に、ヒノエは苛ついた。

いつもなら、言葉巧みに自分をあしらうべんけいが変だ。

何かあったに違いない。


「…望美は…どこにいるんだよ」


再び、同じ言葉を繰り返す。

俯いていて表情が見えない弁慶の襟元をぐいっと掴み、ヒノエは引き寄せた。


「望美はどうしたって言ってるんだよ!!?」


つい大きな怒声を出してしまった。

きっと他の部屋にいる女房達にも聞こえているだろう。

けれど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。

ヒノエは望美を弁慶の元へ返すと決めた。

だけど、望美を愛していることは変わらない。

その望美の安否が全くわからないのでは、苛立ちも膨らんだ。


「…望美さんは元の世界に帰りました」

「……はっ?…」

「空へと消えていく所を見ました……止める間もなかった」

「…で?あんたはそれで何もしないで、ただ落ち込んでいるのかよ…。あんたにとって望美はそんな簡単に手放せる女かよ!」

「っ…!!」



ダンッ



室内に鈍い音が響き渡った。

それと同時に、荒々しい声が。

殴ったのは弁慶、殴られたのはヒノエだ。

年の近い甥であるヒノエを大人として叱ったことなどはあるが、殴ったことなど一度も無い



「君に…ヒノエに何がわかる!?僕から望美を奪っておいて…偉そうなことを言うな!!」


違う。

本当は、ヒノエが望美を奪ったわけではない。

望美がヒノエの傍にいることを選んだんだ。

そうわかっていても、望美の気持ちを、優しさをわかっているからこそ弁慶は望美を憎めない。

いっそ、憎んで、嫌いになれたらどんなに楽だったか。

でもできない、嫌いになんてなれない。

どうしても、愛しい気持ちが溢れてくるから。


「あぁ!あんたの事なんかわからないね、わかりたくもない!」


避ける間もなく、ヒノエの拳が弁慶の頬を捉えた。

その衝撃で、弁慶は後ろに倒れこみ尻餅をついた。


「言っとくけど、先に殴ったのはあんたの方だからな」


殴られたことで、弁慶は少し冷静を取り戻した。

後になって、頬の痛みが響いてくる。

でも、こんな痛み、この胸の痛みに比べたらどうってことはない。

一人、悩み苦しんでいた望美を思うと胸が痛んだ。


「…京へ行きます」

「京…?望美は元の世界に帰ったんだろう?」

「京に行けば、白龍…いえ、応龍が僕を望美さんの元に導いてくれるかもしれない」

「神子であった望美は神に愛される存在だ。その望美を傷つけたあんたを…いや俺もだな、導いてくれるとは思えないね」

「…そうかもしれません」


それでも、諦めるなんてできない。

このまま時が流れたって、彼女を忘れることなんてできない。

僕が生涯愛する女性は、ただ一人。

春日望美、その人だけだから。


「わかった、俺も京へ行く」

「君は熊野にいなさい、別当としてちゃんと誇りと責任を持ちなさい」

「けど…っ」

「…望美さんがもしこの世界に帰ってきたら、君の元に送り届けます…彼女は熊野別当の奥方ですからね」


弁慶の言葉に、ヒノエは呆れたように首を振った。


「馬鹿野郎、まだ…そんなこと言ってるのかよ」

「え?」


ヒノエの言わんとしていることがわからない。

弁慶が首を傾げていると、ヒノエはこう言った。


「…望美とはもう夫婦じゃない。…言ったんだ、『弁慶と一緒に京へ帰りな』って…」

「ヒノエ…!」

「俺は望美が好きだよ、お前に負けないぐらいにな。でも…望美にはちゃんと幸せになってほしい…笑っていてほしいんだ」

「……」

「望美が愛してるのはあんただ、弁慶」


苦笑するようにヒノエは笑った。

でも、その表情はどこか吹っ切れているような感じがした。


「だから、必ず望美を幸せにしろよ」

「…ええ、必ず。誰よりも、幸せにしてみせますよ」

「男同士の約束だ…弁慶」


コツっと拳同士を合わせて誓った。

同じ女性を愛したから、同じ血が流れているから衝突もして、お互いの事は良くわかる。

弁慶はヒノエが用意してくれた馬に跨ると、早々に駆けていった。

行き先は、もちろん京だ。

望美を再びこの腕の中に取り戻すために、神である応龍の元へ。




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