裏
□天女の涙
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「今度…新しい髪留めでも贈りましょうか…」
いつも自分の仕事の手伝いをしてくれている望美に感謝の気持ちを込めて。
身に付ける物を贈るなら一緒に選びに行ったほうがいいだろう、女性は好みに敏感だから。
京邸に着いて望美と会ったら、今度一緒に市に行かないかと誘おうと思いながら弁慶が歩いていると後ろから大きな声がかかった。
驚いて振り返ると、よく見知った患者の一人である年老いた男性が荒い呼吸をしていた。
どこか苦しいのかと慌てて駆け寄ると、どうやら走ってきたせいで息を切らしてしまっただけのようだ。
「ゆっくり息を吸って、吐いて…。駄目ですよ、貴方はもうそんなにお若くないのだから全力で走ったりしたら…」
「っ…はぁ…はぁ…弁慶先生っ…望美ちゃんが…望美ちゃんが…!」
「望美さん…?望美さんがどうかしましたか」
五条へ弁慶の手伝いに頻繁にやって来る望美は患者達の間でも有名で、若いのに献身的ないい娘だと評判だ。
中には望美と会いたいが為に仮病を患ってくる者までいたほどだ。
弁慶は年老いた男性から紡がれる言葉を聞くと、京邸に向かっていた足を引き返して六波羅へと走った。
『六波羅で…望美ちゃんとよく似た女の子が倒れているのが見つかったんだ!』
まだ詳しい状況は聞いていないし、望美だと決まったわけではない。
でも嫌な予感がして堪らなかった、背筋と拳に嫌な汗が滲んできて、通り過ぎる人とぶつかっても詫びをいれることなく弁慶は急いだ。
どうか、その少女が望美でないことを願いながら…。
* * * *
弁慶が六波羅に駆けつけるとさっきとは別の知り合いの患者である男性が案内してくれた。
その望美らしき少女はとりあえずその男性の家へと運ばれているらしい。
倒れているのが見つかった時の状況を聞かされた弁慶は、喉が震えて言葉が出なかった。
服は辺りに散らばり何も身に着けていない状況で、腕には着物の帯が巻かれていて、明らかに暴漢に襲われた後だった。
まだ意識は戻っていないという。
男性の家に着き、奥の部屋で褥に寝かされていた少女は間違いなく望美であることを確認した。
弁慶は震える手でそっと望美の額に触れて、乱れた前髪を左右に整えてやった。
酷い仕打ちにあったのだと一目でわかる。おそらく叩かれたのであろう頬は少し赤く腫れていて、帯で縛られていたという手首は抵抗した名残で擦り剥けていた。
「望美さんっ…」
弁慶は思わず自分の唇を噛みしめていた、血が滲んでいたがそんなこと構いやしなかった。
どうして望美を京邸まで送り届けてやらなかったのか、一人で帰らせてしまったのかと悔やんでも遅い。
源氏と平家の和議が結ばれたことで戦は終わり、京は平和を取り戻しつつあったが、まだ完全なものではなかった。
それは十分わかっていたはずなのに、望美の『大丈夫』という言葉を鵜呑みにしてしまった。
いくら望美が剣を持ち戦で戦ってきたといっても、女なのだ。
武器もない状態で男に勝るなんて到底不可能なのだ。
「…僕のせいです…。僕がちゃんと京邸まで送っていれば…!」
――僕が…僕の存在が望美さんをこの世界に留めてしまっているから…。
本当なら今ごろ元の世界で優しい両親や友人達に囲まれて幸せに過ごしているはずだった望美さんは僕の傍にいたいとそれだけの理由でこの異世界に身を置き、こんな事に巻き込まれてしまった。
僕と出会っていなかったら…!せめて、僕が彼女の八葉でなかったら!
ただの軍師だったら望美さんとこんなに深く関わることはなかった…どうして白龍は僕を八葉に選んだ…!
応龍を滅ぼした罪深き僕に、なぜ尊き清らかな神子を守る役目を与えた!
どうして望美さんがこんな目に遭わなくてはいけない…!?
「っ…!くそっ!!」
ダン!!と人の家だということも忘れて、弁慶は壁を拳で強く叩きつけた。
大きな音が響き、いつもの冷静な弁慶がこんなに声を荒げていることに患者の男性は驚いた。
そんな大きな音にも、弁慶の荒げた声にも、望美は一切反応もなくただ静かに眠っていた。
望美が目を覚ました時、どんな言葉をかければいいのか。
『辛かったね』、『もう大丈夫だよ』…なんて気休めにもならないだろう。
身体の傷は時間が経てば癒してくれるであろう、しかし心に負った深い傷はそう簡単に癒されることはない。
完全に癒すことなど無理であろう、この先も心に傷を抱えていきていくしかない。
「…弁慶先生」
「…はい…」
「あの…誰か他の…女性を連れてきた方がいいのではないでしょうか…?」
「…そう、ですね…」
望美が目を覚ました時、男を極度に怖がる可能性が高いであろう。
それはいくら顔見知りで仲間であっても弁慶も同類、男は皆そうなる。
「…朔殿を…連れて来ます…」
いくら八葉の仲間達であっても、望美が暴漢に襲われたなんてできれば教えたくはない。
望美だって自分がこんな目に遭ったなんて、本当なら誰にも知られたくなかったであろう。
せめて同じ女性である、朔に傍にいてもらうことが最善である。
弁慶は重い腰を上げて、京邸へと足を向けた。
京邸に向かう足がまるで鉛を背負っているように重く感じた。
京邸に着いてすぐに弁慶は景時には席を外してもらい、朔にだけ事情を話した。
親友である望美に起こった出来事に信じられないという風に顔を歪めた後に、瞳からポロポロと涙を零した。
弁慶が何か声をかけようとした時、『私が泣いていては駄目ですね…泣きたいのは…辛いのは望美だもの』と袖で涙を拭った。
強い女性だ、梶原朔という女性は。
さすが、黒龍の神子だと弁慶は思った。
黒龍を…応龍を滅ぼしたのは弁慶だ、その事実を朔はすでに知っている。
戦が終わった時に、自らの罪滅ぼしというつもりで黒龍の神子である朔には真実を話したのだ。
どんな叱咤も仕打ちを受けても受け入れるつもりで話したのだが、朔は弁慶を責めることはなかった。
ただ『…貴方は私の大切な人を奪った…。だから…弁慶殿は自分の大切な人を必ず大事にしてあげてください』…と。
そして、黒龍の話はもうしない約束をした。
過去を振り返っても戻って来はしない、未来を歩むことを朔は選んだのだ。
それに比べて、弁慶はというと今でもかつて愛して守れなかった人のことを追いかけているのだ。
「…弁慶殿?どうしたんですか…」
「すみません…こんな時に考え事なんてしてしまって…」
弁慶は急いで六波羅へ朔を連れて戻ると、望美はまだ目を覚ます様子はなく眠っていた。
密かにホッと息を吐く自分がいた、望美が目を覚ました時のことを考えると…。
そっと望美の手を握り締めている弁慶に、朔は視線を逸らしながら言った。
「…弁慶殿に…聞きたいことがあります」
「何ですか…?」
「望美のこと…どう思っておられるんですか」
「……大切な人です…。でも…それは神子として…仲間としての気持ちです…望美さんが僕に向けてくれている気持ちとは違います…」
朔殿に嘘など付けない、きっと付いたとしてもばれてしまうだろう。
僕の望美さんに対する気持ちはそれ以下でもそれ以上でもないのだ、それがまぎれも無い事実。
「…今の望美はきっと深く傷ついていて…だから…優しくしてあげてください」
「はい、もちろん…。でも、僕より朔殿の方が支えになれると思います…」
「…どうしてそう思うんです?」
「どうしてって…それは女性同士の方が…」
「私は望美の親友のつもりです。…けれど、愛する人にしか癒せないこともあると思います。私はかつて…愛した人がいました。今は居ませんが、その人を想うと強くなれる…。望美は…弁慶殿を愛しています」
真っ直ぐな朔の強い意志を持つ瞳が、弁慶に突き刺さってくる。
望美の気持ちなら十分にわかっているつもりだ、今まで何度想いを告げられたのかわからない。
それと同時に何度、その気持ちをあしらったことだろう。
「…僕に望美さんを愛せということですか?」
「違います、愛は自然に育まれるものです…」
「では、朔殿は僕にどうしろというのですか」
「ただ…傍にいてあげるだけでいいんです…余計な気遣いをしてはかえって望美を傷つけてしまいます」
――傍にいること…それだけで心の傷が癒されることはない、でも…それで望美さんが少しでも元気になってくれるなら僕は傍にいよう。
今はまだ穏やかに眠っているようにしか見えないが、深い傷を抱えている。
その小さな身体で…どんなに辛かっただろう。
考えるだけで顔を知らない、こんな暴挙を奮った者に酷い殺意さえ芽生える。
「…朔殿…望美さんをお願いしていいですか?」
「え…」
「僕は…ちょっと…」
ゾクリと肌で感じるほどの激しい憎悪を弁慶が出していることに、朔は一瞬肩を竦めた。
この男が、武蔵坊弁慶という男性がこんな風に隠すことなく感情を露にさせている所なんて初めて見たからだ。
朔の頭が危険信号を出した。駄目だと、今、この人を行かせてしまっては駄目だと。
思わずとっさに弁慶の着物の裾を掴んで止めてしまっていた。
「朔殿…?」
「駄目ですっ…!弁慶殿…貴方は…犯人を捜しに行くつもりなのでしょう!?」
「そうですが、それが?」
あまりに冷酷な瞳に朔は身体が震えたが、掴んだ手を離しはしなかった。
離しては駄目だと分かっていたから。
「っ…見つけたら…殺すおつもりなのでしょう!?」
今の弁慶が瞳に宿している感情は殺意だ。
「……だから、何だと言うんですか」
「弁慶殿っ!そんな…貴方が手を汚すようなことをしたら望美はどんなに悲しむと思っているんですか!!」
「……望美さんが悲しむことは無いです。人を殺める罪は僕だけが背負います」
「望美は…!!貴方が軍師を辞めた時、とても喜んでいたんです!貴方がもう罪を背負うことはないんだって…!お願いですから…望美のその気持ちを裏切るようなことはしないでくださいっ…!」
溢れ出た朔の涙に弁慶は言葉を詰まらせた。
自分だけが罪を背負うならそれでいいと…思っていた。
しかし、弁慶が罪を背負うことで望美も傷つくことに繋がるのだ。
弁慶は立ち上がりかけていた腰をがくりと下ろして、再び望美の手を優しく握りしめた。
その弁慶の表情を朔は生涯忘れることはないと思った…今にも泣き出しそうな子供の様な顔をしていたから。
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