裏
□天女の涙
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初恋だったの、弁慶さんは私は初めて好きになった男の人…。
誰にだって優しい人だってことはわかってる、私にだけ特別に接してくれているんじゃないってちゃんとわかってる…。
それでも…自惚れかもしれないけど、時々弁慶さんの視線が私を追っている気がしたの。
弁慶さんにとって私ってどんな存在…?どう思っているのかな…?
異世界からやってきた少し変わった娘とか、八葉として守るべく存在である白龍の神子とか、ただそれだけ…?
そうじゃないって…思いたい。だって、どうしてかな…弁慶さんがふとした時に私に向けてくる顔が愛しさが感じられているように感じたから…。
こんなに何度も振られているのに…本当に私って諦めが悪いよね…嫌われちゃってもしかたないかな。
この想いを諦められるなら初めからそうしていた、けど…諦めるなんてできなかった。
優しい笑顔が愛しくて…時々見せる寂しそうな顔が切なくて、抱き締めてあげたくて、私が貴方の心をすべて受け止めてあげたかった。
でも…私は弁慶さんにとって重荷にしかなっていない…。
私の存在が…想いが弁慶さんの重荷になる…、弁慶さんを苦しめている…。
それなら…そんな私はいらない…必要ない…、消えてしまえばいいんだ。
忘れてしまえば消える…“私”という存在は…。
そうすればこの元の世界に帰らなくていいよね…?弁慶さんの…傍にいてもいいよね…?
暗闇の向こうから指し伸ばされる手を取った。
その瞬間、頭が真っ白になっていくのを感じた……ああ、私が消えていく…。
記憶とはその人の歩んできた人生そのもの。
嬉しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと、寂しかったこと、悔しかったこと、愛しかったこと、たくさんの出来事の思い出だって記憶がなければ無かったことと同じになってしまう。
例えば、愛する人がいたとしてその人に想いを告げようと思っていても、思いを告げる前に記憶が無くなってしまえばその想いは初めからなかったことと同じ。
人は生きてきたその時間で形作られていく、その大切な記憶が無ければその人は空っぽになってしまうのだ。
自分の置かれた状況に戸惑うように不安げな顔をしている望美がおそるおそる口を開いた。
「貴方は誰…?ここは…どこ…?私は………誰?」
「望美…さん…」
「望美…?それが…私の名前なんですか…?」
「っ…!わからないんですか……?僕のことが…自分のことが…」
つい先ほどまでは望美に特に異変は無くちゃんと記憶もあった。
僅かな眠りの間に記憶が無くなってしまったというのか。
弁慶は思わず強い力で望美の肩を揺さぶった。
冗談だと言ってほしい、何かの間違いだと、思い出してくれと気持ちを込めて。
思っていたよりも力が込められていたせいで、肩に痛みを感じて望美は顔をしかめた。
「やっ…痛いです、離して…」
「望美さん!本当に…本当に僕がわからないんですか!?」
「貴方は誰…?」
「っ…」
いつも自分に花のような愛らしい笑顔を向けてくれる望美の口から『誰?』何て言葉を言われたことで酷く頭に衝撃が走った。
まるで締め付けられているかのように胸が痛んだ。
何とか冷静を保とうと大きく息を吸い込んで、気持ちを落ち着ける。
「…君の名前は春日望美さんと言うんですよ…」
「春日…望美…?それが私の名前なんですか…?」
「…そうですよ。僕は武蔵坊弁慶と言います…君とは戦を共に戦った仲間です」
「武蔵坊…弁慶、さん…?戦…?仲間…?私は、軍人なんですか?」
軍人という言葉はこの世界ではあまり聞きなれないが、話の流れから察するに大体の意味はわかる。
頭を抱えて何もわからないと繰り返す望美をそっと抱き寄せれば、まるで母親を恋しがる子供のように弁慶にしがみ付いてきた。
「わからない…何もわからないんです…怖い……一人にしないでっ…」
「…望美さん」
翡翠の瞳から零れ落ちる涙を拭ってやり、手を握ってやり安心させる。
しばらくして弁慶の肩に頭を預けるように望美は眠りについた。
そっと褥に寝かせてやると、弁慶は別室にいる景時と朔の元へと向かった。
弁慶の話を聞いた二人は信じられないと、思わず言葉を失った。
朔は立ち上がり望美の元へと向かおうとしたが、それを「待ってください」という制止で止められた。
今は眠っているからそっとしておいてやってくれと、もしかしたら明日の朝に目を覚ました時には記憶が戻ってるかもしれない…そんな淡い期待を持ちながら弁慶は願った。
今宵は満月のはずだったが厚い雲に覆われてしまい、まるで新月のようだった。
月のような人だと思ったいた。周りを明るく照らしてくれるそんな少女だと。
しかし、今の望美はぼろぼろに傷ついていて、記憶まで無くして、痛ましい。
弁慶が見えぬ月に願うことは一つ。
――どうかいつもの彼女に戻りますように…。
* * * *
「…んっ…」
額には浮き上がるように大量の汗、髪は乱れて、何度も寝返りを繰り返す。
望美は夢を見ていた、酷く怖い夢だった。
世界には自分しかいなくて、真っ暗で、大声で誰かに助けを求めたくても誰の名も出てこない。
誰の顔も浮かばない、何も思い出せない。孤独で身体が震えて強張ってくる。
「…っ…いや…来ないで…」
自分を覆い尽くすかのような闇が迫ってくる。
必死に逃げても逃げても闇は追いかけてきて、次第に自分の身体を侵食してゆく。
「いやっ…怖い…助けてっ!!」
「望美さん!!」
呼びかけられた声にはっと目を覚ます。
瞳を開けると、心配そうにこちらを見下ろしている男性がいた。
その男性の名は知っている、なぜなら教えてもらったから。
「…貴方は…武蔵坊、弁慶、さん…?」
「はい。弁慶で構いませんよ、望美さん…」
弁慶は冷たく濡れていて絞った布で望美の額の汗を拭ってやった。
自分でしますという望美の言葉を遮るように「いいから、横になっていてください」と有無を言わせなかった。
「酷く魘されていましたよ…怖い夢でも見ましたか…?」
「真っ暗で…怖かった…です…助けてって、叫びたいのに…誰のことも想い出せなくて…」
「…記憶は…そのままですか、何も思い出せませんか…?」
「はい…ごめんなさい」
少し期待していた気持ちがガラガラと崩れていくが、それは表には出さない。
今の望美に負担をかけたくないから、怖がらせないように優しく微笑みかけた。
「…無理はしないでください…ゆっくりと思い出せばいいんですよ」
そう口で言いながら心の奥底では引っかかる気持ちがあることに気付いてはいたが、弁慶はそれを心の奥に押し込めた。
自分を見る望美の視線が今までならはっきりとわかるほどに愛しさを向けられていたのに、今はそれがない。
ただ、それだけのことだ。
望美の気持ちに対して正直煩わしいとまで思っていたはずなのに、それなのに…。
「はい、ありがとうございます…弁慶さん…でいいんですよね?」
それなのに、こんなに切なくなるのはなぜなのか。
今の弁慶には検討もつかない。
「ええ…。話しましょう…少しづつ、君のことを…そして僕のことも…」
朝日はすでに昇っている。
襖の隙間から差し込んでくる日の光と、朝のさわやかな心地いい風が二人を包み込んだ。
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