□天女の涙
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あれからどれぐらいの時間が流れただろうか…已然望美さんの記憶は戻らない。

外に出歩かせることはなく京邸でじっとしておくように言い聞かせても、彼女は外に出たがる。

窮屈なのだろう、元の彼女は剣の修行にだって手を抜いたりしない人で活発な人だった。

記憶を失った望美さんは以前の様な明るい少女に戻りつつあった。

男に襲われたことも覚えていなくて、記憶が無いことに不安がってはいたけれど次第にそれにも慣れて穏やかに笑っている。

もしかしたら妊娠しているのではないかという心配も大丈夫だったようだ。

朔殿からこっそりと、望美さんに月の障りが来たと教えられたから。

子供ができていなくても、望美さんが男に襲われた事実は変わらない。

でも今の望美さんにその記憶は無く、ただの純粋無垢な少女だ。

同じ京邸で暮らす景時や朔殿とは新しく仲を深めていて、他の八葉達も望美さんが記憶を失ったことを知って適度に会いに来る。

でも…僕は違った。

できるだけ会いに行かなかった。仕事が忙しい、薬草を取りに遠くの山まで行かなくてはいけないから…と理由を付けて。

今の彼女と…会いたくなかったから…。本当に勝手な話だが、以前彼女が僕に向けていた熱い視線が感じられない……それが酷く嫌だった。



「弁慶、弁慶…」



呼びかけられた声に眠りかけていた思考が現実へと戻ってくる。

僕も随分と平和ボケしたものだ、昔だったら誰かに寝顔を晒すことなどできなく、いつだって気が立っていた。

軍師を辞めたことで、あまりに平和な日常に浸っていた自分に気が付いていなかったのかもしれない。

京はまだ安全とは言い切れないということはわかっていたはずなのに…どうして望美さんを一人にしてしまった…。


「おい…いい加減に起きろ、こんな所で寝ていたら風邪を引くぞ」


九郎の邸の縁側で、酒を飲んでいたらウトウトと眠っていた。

昼間は温かいが、さすがに日が落ちて夜になると肌寒くなる。


「…起きていますよ、九郎」

「…今日は少し飲みすぎているんじゃないか?お前らしくもなく酔ってるな…」

「酔ってませんよ…少し気が荒立っているだけです」


酔ってはいないと言ったものの頭はズキンと痛むし、自分だけの力で立ち上がれる気もしない。

酒には弱くない寧ろ強い方だと思うが、今宵は随分と飲んでしまった。


「…なあ、弁慶。景時から聞いたが、お前…最近京邸へは出向いていないらしいな」


遠回しな言い方が九郎らしくないと思わず苦笑してしまった。

そういえば九郎と望美さんはよく似ている…隠し事ができなくて、素直な所が…。


「ええ。特に用事もありませんから…」

「あるだろう…望美に会いに行かないのはなぜだ?あいつの記憶は未だ戻らない…お前は望美に元に戻ってほしくないのか?」

「…別に僕でなくてもいいでしょう。彼女の八葉は僕だけじゃないんですから」


九郎の眉間に皺が寄るのがわかったが、それには気付いていないふりをした。


「お前…」

「間違っていないでしょう…?僕が会いに行った所で記憶が戻るなんてこと…」

「望美はっ…お前のことが好きなんだろう!!」


確かに望美さんは僕が好きだと言った…僕の傍にいたいから元の世界には戻らずにこの世界にいたいと。

でも…それは記憶を無くす前の彼女であって、今の彼女ではない。

僕が会いに行った所で…何かが変わるなんて思えない。

元の世界に還してやりたい…けれど、今の彼女に白龍を呼ぶことなんて無理だ。

何としても記憶を戻してやる必要がある。

けど…本当にそれだけなんだろうか?僕が望美さんに記憶を取り戻してほしいと思うのはそれだけか?


「…弁慶、今まで黙っていたが俺は望美が好きだ」

「っ…!?」

「俺だけじゃない…景時やヒノエだってそうだ…旅をしていた時から望美を想ってた…。けど、あいつが好きなのはお前だったから…俺達はただ見守っていた。望美なら、お前の頑なな心を溶かして…きっと想いも通じるんだと思っていた…」


景時やヒノエ、九郎が望美さんに想いを寄せていたことは何となくだがわかっていた。

だが、あの九郎がここまで自分の気持ちを認めてしまって打ち明けてくるなんて思ってもいなかった。


「お前は…まだ引きずっているのか…“あの女(ひと)”を…!」


言葉に詰まってしまい、返事を返すことができなかった。

今でも夢に見る彼女は優しく微笑みかけてくれるけど、呆れたように僕に投げかけてくる。


『もう、いいんじゃないの…?自分で自分を苦しめるのは…』


僕の咎は決して許されるものではない。

だから、人並みの幸せを得られなくても、人並み以上の苦しみは甘んじて受けよう。

それなのに彼女は夢の中で僕にそう言うのだ、まるですべて許してくれるように…。


「九郎…君は本当に心から誰かを愛したことがありますか?僕は彼女を失って嫌というほどわかりました…どれぐらい彼女を愛していたか…失ってから気付かされました、どれほど必要な人だったか…」


僕の咎も知っていて、それでもこの血に濡れた手を包み込んでくれた。

源氏の軍師であった僕の傍にいることがどれほど危険なことか、わかっていたはずなのに守ってやれなかった。

息絶える直前に彼女が紡いだ言葉は何に対してのものだったのか未だにわからない。


『…ありがとう…』


巻き込んでしまった、利用してしまった僕になぜ最後まで微笑んでくれたのか…。

どうしてありがとうと言ってくれたのか…最後ぐらい恨み言の一つ言ってくれたら良かったのに。


「…すみません九郎…。少し…一人にしてくれませんか?」

「……わかった。ここでは寝るなよ、風邪を引くからな」

「ええ。……明日…望美さんに会いに行きますよ、“仲間”としてね…」


何か言いたそうにしていた九郎だったが結局何も言わずに僕の前を後にした。

言ってくれればいいのに、殴ってくれればいいのに、馬鹿野郎と…、そうすれば…少しは楽になれたのに。









* * * *








翌日。

僕は一度五条に帰り、患者の人達を診て回った。

治療が必要な人には治療を施して外に出歩けないお年寄りに薬を届けに行って、昼過ぎにようやく終わった。

京邸へ、望美さんの元に行くのは数週間ぶりだった。

変な緊張感で手に汗が滲んでいるのがわかった。

妻戸の所で聞こえてきたのは望美さんの声ともう一つ…よく知っている甥の声だった。

いつからこちらへ来ていたのかは知らないが、彼女が記憶を無くしてと聞いて熊野から駆けつけたのだろう。

二人の楽しそうに談笑する声は庭先から聞こえてきて、こっそりと覗き込んだ。


「―でね、すっごく美味しかったの!」

「へえ、今度俺も食べてみたいな。望美が作ってよ」

「えっ?私はちょっと…料理そんなに得意じゃないし…」


何かの料理の話をしているようだ。

記憶を失った望美さんはヒノエのことも覚えていないはずだが、まるでそれすら感じないぐらい仲良さげだった。

ヒノエに微笑みかける顔が、信頼しているということが伝わってくる。


ズキン…


――なんだ、この胸の痛みは…。

元気になってくれて良かったはずなのに…それなのに素直に喜べない自分がいる…―。



「あっ、弁慶さん!」


僕に気が付いた望美さんが小走りでこちらに駆け寄ってくる。

その後ろからゆっくりと、「げ、あんたかよ」という様な顔をしながらヒノエもやって来た。


「こんにちは、望美さん。お元気そうですね」

「こんにちは!お久しぶりですね、最近お仕事忙しかったんですか?」

「ええ、まあ…」


本当は会いに来れないほどいそがしかったわけではないが、自然と足が遠ざかってしまっていた。

今、目の前にいるのは望美さんだけど、望美さんじゃない。

僕のことを好きだと、頬を赤らめて言ってくれた彼女じゃない…―。


「望美は今俺と話してるんだよ、邪魔しないでくれる?」

「もう、ヒノエ君!そんなこと言わないの!えっと…二人って叔父と甥なんですよね…?」


僕は教えていないから、ヒノエから聞いたのか景時か朔殿から聞いたのだろう。

戻らない記憶を確かめるように聞いてくる彼女が酷く悲しかった。

悲しんだ顔なんか見せたら余計に悲しませてしまうから笑顔を取り繕う。

自分の感情を隠して笑うことなど慣れすぎてしまった。


「はい。ヒノエは僕の兄の子供に当たりますから、そうなります」

「二人が並んでいる所初めて見ましたけど、あまり似てませんね」

「…僕はこんな髪色ですからね…」


頭の中で蘇るのは出遭ったばかりの頃に望美さんに言われたあの言葉。

『弁慶さんの髪、きらきら光ってすごく綺麗ですね』

お世辞でなくて純粋に言われてどんなに嬉しかっただろうか、そう言ってくれた望美さんはいない…―。



「弁慶さんの髪って、お日様みたいに輝いていてすごく綺麗ですね」



一瞬、らしくもなく固まってしまった。

何か言おうと思ったのに、言葉は喉に詰まってしまって出てこない。

ヒノエが見ているということも忘れて、思わず彼女を引き寄せて抱き締めた。

驚いたのは望美さんとヒノエだけじゃなくて、当の本人である僕自身もだった。

理由なんて必要ない。

ただ、抱き締めたかったから。

それだけだ。



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