裏
□天女の涙
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大切な気持ちを忘れてしまっている気がする。
それがどんな想いだったかはわからないけど、すごくすごく大事なことだったと思う。
私自身は記憶がないことであまり困ったりはしないけど、みんなの悲しそうな顔を見るのは辛い。
毎日誰かに『何か思い出した?』と期待を込めて聞かれて首を振るのが辛い。
思い出すのが一番なんだろうけど、私は心の中のどこかで記憶を取り戻すことを怖がってる。
あの時の…不思議な声の女の人が言っていた…思い出しては駄目だと、それと…――。
『この世界にいたいのでしょう…?それなら…忘れたままでいなさい。』
あれはどういう意味…この世界いたいなら記憶を忘れたままでいなければいけないってこと…?
私は…記憶を失う前の私はこの世界にいたかったってこと?
私は白龍の神子という存在で別の世界からこの世界へやって来た、そして剣を握り八葉と呼ばれる人達と戦を潜り抜けてきた…それはみんなから聞いた話。
源氏と平家の和議が結ばれて戦は終わり神子としての私の役目は終わったのだと聞いたのに…それでも私がこの世界に留まっていたのはどうしてなんだろう…。
元の世界に帰らずにこの世界にいたい理由があった…それしか考えられない。
朔や景時さんやみんな誰もそのことは言わなかった、それは私が聞かなかったから何も言わなかったのか、それとも…。
「望美さん、もうすぐ本宮に着きますよ」
掛けられた声にハッとなって望美は我に返った。
現在、龍神温泉の近くの宿に一泊して本宮に向かっている途中の弁慶と望美。
元々弁慶はそんなに口数が多い方ではないし、望美が何か考え事をしているようだったのであまり話しかけなかった。
男と女では歩調が違うが、それを感じさせないように弁慶は望美に合わせて歩いていた。
「…そうですか」
「望美さん?どうかしましたか、元気がないみたいですけど…京からの長旅に疲れましたか?」
「いえ…そうじゃなくて……」
言葉を途切れさせた望美の口から再び言葉が紡がれるのを弁慶はじっと待った。
促すことはせず耳を傾けた。本当に何とか聞き取れるぐらいの小声で望美が呟いた。
「…もうすぐ…弁慶さんとお別れなんですね…」
望美が呟いた言葉に弁慶は一瞬聞き間違いかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
お別れというと、弁慶は望美を本宮まで送り届けたら京に帰ってしまうことを言っているのだろう。
弁慶としてはすぐに京に帰るつもりはなくて、短くても数日は熊野に滞在していくつもりだ。
それに兄や義姉といった面々が滅多に故郷に顔も出さない自分をすぐに帰してくれるわけないから。
「僕はしばらくは熊野にいますよ。…いずれは京に帰りますけど」
「いずれって…どれぐらいですか?」
「そうですね…さすがに一月も居ませんが数日は熊野で過ごします」
「数日…」
どこか悲しそうに顔を俯ける望美に弁慶は苦笑した。
そんな顔をされたら期待してしまうではないか、記憶を失った望美も自分のことを想ってくれているのかと。
期待して裏切られた時の傷は大き過ぎる。それなら初めから淡い期待なんて持たないほうがいい。
「…熊野にはヒノエがいます。それに敦盛君もいますから寂しくなんてないですよ」
「敦盛…?ああ、八葉の方ですね。今の私はまだお会いしてことがないですけど…」
「熊野は京よりもずっと安全です。みんな親切な人達ばかりですから、君も今は不安でもすぐに慣れますよ」
「……はい」
どこかはぐらかされたしまったような、そんな感じがした。
望美は弁慶と別れることが寂しいと言ったのに、知っている人と別れることが寂しいというニュアンスに変わってしまった。
別に望美は弁慶を試すつもりでそう言ったのではないが、どこか悲しかった。
少し前を歩く弁慶の背中を見詰めながら瞳を閉じた。
何が悲しいのかも、このやりきれない様な気持ちも記憶さえ戻れば晴れるのだろうか。
(…でも…思い出すのが怖い…)
こういう不安な時、以前の自分は誰に相談していたのだろうか。
両親は別の世界、となると朔や景時だろうか。弁慶、という名は思い浮かばなかった。
なぜなら武蔵坊弁慶という人がよくわからないから。
優しいと思ったら冷たくて、冷たいと思ったら優しくて、信用がない訳ではないけど未知数だ。
今、もしこの男性にしては狭い背中に抱きつけば優しく抱きとめてくれるのだろうか、それとも冷たく突き放されるのか。
一体自分は何を考えているのかと望美は小さく首を振って、ただ彼を見据えた。
* * * *
本宮に着くと、まるで来る時間までわかっていたかのようにヒノエが弁慶と望美を出迎えた。
本宮のすぐ近くに建っている別当邸へと案内されたが、そこで弁慶とは別れてしまった。
弁慶の兄へヒノエの父親である湛快が彼に話があるからと呼び出されたのだ。
望美はヒノエに連れられて別当邸の一室へと通された。
今日から熊野にいる間はここが自分の部屋になるのだと告げられた望美は驚いて首を振った。
京邸も十分大きな邸だったが、別当邸はそれとは比べものにならない広さだ。
望美に与えられた部屋もまるで広場のように広くて、こんな部屋はとても借りられないと思った。
しかしここよりも狭い部屋はどこも空いていないと言われてしまえばどうすることもできなかった。
そわそわと辺りを見回して落ち着かない望美をヒノエは庭先まで連れ出した。
外の空気を吸えば望美も少しだけ落ち着き、疲れを吐き出すように溜息を零した。
「ヒノエ君…あの…弁慶さんは…?」
「あいつは親父に呼ばれてるから、きっと長話になるだろうからしばらくは戻ってこないな」
「そっか…」
弁慶と湛快は年が離れた兄弟だが、実の兄と弟。長い間離れていても家族であり、募る話もあるだろう。
望美にも家族がいる。別の世界にいる両親だ。
記憶が無いからどんな顔をしていたさえ思い出せないが、何となく優しい人達だった気がする。
白龍の神子の役目が終えても、以前の自分が元の世界に帰らなかった理由を望美は薄々気付いていた。
理由は…心の中にある。
「…望美…」
「ん?」
少し躊躇った後、ヒノエは意を決するかのように望美を真っ直ぐと見詰めて言った。
これは警告ではない、嫉妬心からの言葉でもない。ただ、愛しい人を想っての言葉だ。
「…弁慶のことは…好きになるな」
ヒノエは八葉として共に旅している時から望美のことが好きだった。
それは遊びではなくて本気の情熱。初めてここから愛しいと思ったのが望美だった。
でも望美の瞳はいつも弁慶を追っていた。ヒノエが望美を見詰める瞳と同じ目で。
だから諦めたわけではないけど見守ってきた。
けれど二人は結ばれなかった。弁慶が望美の気持ちを拒んだからだ。
「あいつのことは好きになるな…お前が傷つくだけだから…」
「傷つくって…どうして…?」
「それは…」
傷ついて、それでも弁慶への想いを諦めない望美のひたむきさをヒノエは知っている。
だからこそ、今の記憶を失った望美が再び弁慶を想うようになって傷ついてほしくないのだ。
「…記憶を無くす前の私は…弁慶さんが好きだった?」
「っ…!」
ヒノエが言葉を詰まらせたことで望美の疑問は確信に変わる。
「やっぱり…そうだったんだね…。傷つくってことは…私はもう以前に振られちゃってるんだね……」
「望美…」
「あ、大丈夫!今の私は記憶がないし、弁慶さんのことなんて全然…ぜんぜん…すき…じゃない……っ…」
笑顔で全然好きじゃないと言おうとした言葉は嗚咽で途切れてしまった。
泣くつもりじゃなかった、笑顔で平気だと言えると望美自身も思っていた。
しかし身体が、心がそれを拒むかのように悲しさが溢れてきて涙が止まらなかった。
何も言わずにただ慰めるように抱き締めるヒノエの背中に腕を回して望美は泣きじゃくった。
本当はずっと前から気付いていたのだ、自分の気持ちに、彼が好きだと。けど認めてしまうことが怖かった。
好きだと認めてしまえば、傍にいてほしくなる、触れたくなる。愛してほしいと願ってしまう。
それを拒絶されることが怖くて仕方ない。
「…俺の妻になりなよ、望美。俺なら、お前を幸せにしてやれる…」
「ヒノエ君…」
「俺はずっと…お前が好きだった…。……俺じゃ駄目かい?」
ヒノエが零れ落ちる涙を唇で拭ったと思えば、唇を重ね合わされた。
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