裏
□天女の涙
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きっと兄は僕にもっと言いたいことがあったのだろう。
だから熊野に帰って来て早々に僕を呼び出したのだろう、酒を飲もうというのは場を和ませるための小細工。
けど、僕は兄が言いたい言葉をわかっていても察してはやらなかった。
『もっと楽に生きることができないのか』、『一人で考えすぎだ』、『そろそろ嫁でも貰ったらどうだ』…他にも色々言いたいことがあるのだろう。
豪快で勇ましい人だけど、お人好しな人だから…だから、劣等感を感じたことだってあった。
才能や人望、両親にも愛されて恵まれて育った兄が憎く感じたこともあったはずだった。
けど…そんなものを忘れてしまうぐらいに僕は兄には感謝しているから恨みきるなんてできない。
ただ熊野の地で幸せにと…僕は罪を少しでも償うためにも京で生きると決めたから。
「そろそろ熊野に落ち着く気はないのか、弁慶」
「ありませんね、おそらく今度も一生」
冷ややかな返事をする弟に湛快は苦笑した。
故郷を出て行く者は少なくないが、最後は故郷へと戻ってくる者も少なくない。
弁慶が熊野で暮らしたのは本当に幼い間だけ、ずっと比叡山に預けられていたのだから。
湛快は年の離れた弟にどう接すればいいのかわからないことはなかったが、時々何を考えているのかわからなかった。
いくら実の兄弟で血が繋がっていても、武蔵坊弁慶という男はそんな簡単に自分の心の内を見せてくれない。
それが歯痒く感じたが、別に自分じゃなくてもたった一人でもいいから弁慶のことを分かってやれる者がいればいい。
軍師だったこともあって、相当頭が切れるが実はとても不器用な人間でもあるのだ。
「もういいですか、望美さんの元に戻っても」
「ああ、悪かったな引き止めて…お前の人生だ、お前が思うように生きればいいさ」
「ええ。今までもそうしてきましたから、これからもそうするつもりですよ」
「全く…お前も頑固だな」
人は色んな人と出遭って、環境などの様々な影響を受けながら成長する。
時には他人の意見に流されることもあるが、結局歩む道を決めるのは自分なのだ。
源氏の軍師となったことだって、たくさんの人を殺めてしまったことだって、自分が決めた道だった。
そしてすべてが終わった今、咎を背負い生きていくことを決めたのも自分。
立ち止まってなんていられないのだ。時間は待ってはくれない。
弁慶は顔を伏せるように湛快に礼をした。
生まれつき髪のことで差別を受けてきた弁慶に、兄はいつも優しく接してくれた。
不憫で不器用にしか生きられない弟を心配して、それでも弁慶の決めた道が危険なものでも止めはしなかった。
自分の足で歩み始めた弁慶を止められるはずはなかった。
「……大切なものを手放すなよ、弁慶」
遠ざかる弁慶の後姿を見詰めながら、湛快はポツリと呟いた。
その言葉は弁慶には届いたかは本人しか知らない。
* * * *
唇に触れた温もりが何なのか望美が理解するのには数秒の時間を要した。
口付けられたのだと理解した時にはすでに唇は離された後だった。
顔を真っ赤に染めたり騒いだりする以前に、望美は軽い放心状態になっていて反応に遅れてしまった。
そっと自分の人差し指で唇をなぞって、色んなことが頭に湧き上がってきて熱が上がる。
さぁーっと頬が高揚していくのが自分でも嫌なぐらいにわかった。
「ひ、ヒノエくっ…」
望美が言葉を言い切る前に、ヒノエが「待った」と言う様に手のひらを差し向けた。
予想外なことにヒノエは片方の手で自分の口元を押さえるようにして顔を朱に染めていた。
いつも自信満々で余裕を見せているヒノエのそんな様子に望美は驚きを隠せなかった。
「ごめん…でも、俺はお前が好きだから…抑えられなかった」
「ヒノエ…くん…」
「好きだから…お前が弁慶のことで、他の男のことで泣く所なんて見ていられない…」
腕を引かれたと思ったら強い力が加わり、そのままヒノエに抱き締められた。
望美にとって同い年の気さくな仲間であるはずのヒノエがこの瞬間は酷く異性なんだということを意識させられた。
身体に回されている腕の力は緩まる気配はなく、寧ろ強くなった気がした。
「…妻になりなよは唐突すぎたよな…でも、俺の女になること考えてほしい」
「でも…私」
「…弁慶のことか…?それは記憶を無くす前の望美だ、今のお前じゃない。…そうだろ?」
「……」
違う。
本当はもう分かってしまったのだ、自分は彼を…弁慶を好きなのだと。
それもただの好きではない。胸が熱くなって燃え尽きてしまいそうなぐらい情熱的に彼を愛しく想うのだ。
でも記憶を失う前に自分は彼にすでに振られてしまっていると知ってしまった。
それなのに記憶を失っても再び弁慶を好きになってしまうなんて、彼にとってはしつこい事この上ない。
未練がましい女だと、重い女だと思われたくない。
叶わない想いだからといって、この気持ちを捨ててヒノエにすがり付くなんてしたくなかった。
「…ごめん…弁慶さんが好きなの…」
「弁慶に…気持ちを伝えるつもりかい?」
「ううん…だって何度も振られるのは覚えてなくても辛いし…弁慶さんにも迷惑だから…」
だからいいの、と静かに微笑む望美は儚くて悲しげでヒノエは胸が締め付けられた。
ヒノエにとってここまで愛しく想う女は望美が初めてだ。
その望美は弁慶に想いを寄せていて振られても記憶を失っても尚、想い人しか見てくれない。
どうして自分じゃないんだと歯痒くて仕方ない。
「…俺は待つよ。望美が弁慶への気持ちを断ち切れるまで待てるよ」
「ヒノエくん…」
「もう一度だけでいいから、考えてほしい。俺の事を…見てほしい」
ヒノエは抱き締める腕を解き望美を解放すると、視線を真っ直ぐと合わせてきた。
逸らすことは許されないというぐらい真剣な眼差しに、望美は開きかけた口をぐっと閉ざしてしまった。
その望美の硬い様子にヒノエは少し表情を崩して、「そんなにビクビクするなよ」と苦笑した。
ようやく身体のこわばりが解けた望美はホッと溜息を零して、言葉を選びながら口にした。
「…今は弁慶さんのことで頭がいっぱいだから…。でも、ゆっくりとヒノエ君のことも真剣に考えるよ…」
――弁慶さんへの気持ちは…忘れた方がいいのかもしれない。
私の想いは弁慶さんにとって重荷になるだけ、それなら…。
もうすぐ弁慶さんは京に帰ってしまう。次にいつ会えるかもわからない。
それだけ長く離れてしまえばこの痛いぐらいの胸が押しつぶされそうな気持ちも諦めることができるのかな…。
流れそうになる涙を飲み込むように望美は瞳をぎゅっと瞑って、大きく息を呑んだ。
別当邸のこの庭先から見える空は雲一つ無く綺麗だった。
曇るこの心とはまるで正反対の様に。
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