裏
□天女の涙
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弁慶さんが源氏の軍師を辞めた。
これからは薬師として京の人々の為に働くのだと、景時さんから聞いた。
弁慶さん本人からは…聞いていない。
気まずくてお互い避けているから、もう長い間顔も見ていない。
弁慶さんは京の五条の小さな庵で生活していて、そこには毎日たくさんの人達がやって来るんだって。
きっと弁慶さんのことだから周りの人達にも慕われて、笑顔を絶やさないんだと思う。
前に進んでいるんだ…弁慶さんは一人でも前に…。
私は一体いつまで立ち止まっているんだろう…、弁慶さんの傍にいたくてこの世界に残った。
弁慶さんが私を見てくれなくても…同じ世界にいられれば幸せだと…そう思ったのに。
欲張りになってしまう、弁慶さんと同じ世界にいるだけじゃ嫌だ、会いたい、話したい、私を…好きになってほしい。
初恋なんて適わないものだって、昔に友達が言っていた。
たくさんの恋をして、いろんな人を知って、それから本当に愛する人を見つければいい…そう言ってた。
私もそう思う、別に初恋に拘る必要は無いって。
でも、私が拘っているのは初恋じゃない、弁慶さんだから…諦められないの。
たまたま初恋が弁慶さんだっただけ、初めて好きになった人を心から愛しいと思ってしまっただけ。
それだけなんだ…理屈じゃなくて、惹かれてしまったの。
八葉の皆は魅力的な人ばかりだった。
幼なじみで頼りになる将臣君、少し口が悪いけど素直で努力家の九郎さん、明るくて気さくなヒノエ君、もう一人の幼なじみでしっかり者の譲君、発明家で気配り上手な景時さん、口数は少ないけど優しさと強さを持ち合わせている敦盛さん、剣の師匠で厳しいけど優しいリズ先生。
あと、私の対の黒龍の神子で親友の朔と、京を守護する龍神の半神で私を慕ってくれた白龍。
そして…普段は物腰が穏やかで人当たりも良くて、優しくて…でも時々嘘つきな弁慶さん。
ヒノエ君もだけど、弁慶さんは素で翻弄するよなことを言うから…私…自惚れちゃった…。
ほんの少しだけ…期待いていたの、もしかしたら弁慶さんは私のこと想ってくれているんじゃないかって。
結局、振られちゃったけど…。
「…どうしようかな…これから私…」
現在は京邸で景時や朔の世話になっているが、ずっとここにいるつもりはないのだ。
どうにかして、この世界で生きていける術を見つけたい。
誰かに嫁いで養ってもらう…なんて弁慶以外の男性の下になんて嫁ぐ気はさらさらない。
これからのことを考えていると望美から自然に溜息が零れた。
縁側で庭先の小鳥達の囀りに耳を傾けていると、眠気が襲ってくる。
こんな所で寝てしまったら、嫁入り前の娘がはしたないと朔に窘められてしまうだろう。
そう思いながらも瞼が下がってきて、いつしか眠るに落ちた。
まだ昼下がりで気温も温かく心地いい。
眠たくなるのは仕方のないことだと、望美は自分に納得させて夢の中に旅立った。
「……望美、さん?」
縁側でまるで猫の様に丸くなり眠る望美を京邸にやって来ていた弁慶が発見した。
特に用事があった訳ではないのだが、たまには顔を出しておこうと仕事が一段落ついた後に寄ったのだ。
景時と少しばかり雑談をして、朔に挨拶を済ませ、望美はどこにいるかと問いかけた。
返ってきた答えは「縁側でぼんやりしていましたよ」と朔が答えた。
少し広い京邸の縁側を一つ一つ回りながら望美を探した。
やっと見つけた望美は幸せそうに寝息を零しながら眠っていた。
「…こんな所で眠っていたら風邪引きますよ」
そっと音を立てないように、望美の隣に腰掛けた。
眠っているその顔はとてもあどけない少女のもので、勇ましい源氏の神子の面影などない。
時々忘れてしまいそうになるが、まだ十七の少女なのだ。
この細い小さな身体で、たくさんのものを背負って戦っていたのだ。
「どうして…君みたいな人が僕なんかを好いてくれるのかな…」
理不尽な世の中だ。
罪深い僕を、清らかな白龍の神子の君が好いてくれるなんて…分からない。
確かに彼女に優しく接したことは認めるが、別に特に特別扱いしたわけではない。
適度に距離を取って、決して心の内は見せなかった。
それなのに彼女は僕を好きだと言って、この世界に残っている。
今まで育った世界や両親、友人も捨てて、僕の傍にいたいと言った。
分からない…僕は君のことを愛してもいないのに…君の気持ちが煩わしいとさえ思う最低な男なのに、どうしてそこまで僕を…?
「…早く帰ってください…僕なんか君には相応しくないです。君にはもっと…誠実な男が似合います」
さらっと目にかかる前髪を寄せてやる。
長い睫毛に美しい紫のかかった髪、ほっそりとした長い手足、きっとその内もっと美しい女性にと変貌することだろう。
そんな少女だから、余計に自分なんかに囚われていることが惜しくて仕方ない。
冷たくして突き放そうと思った、しかし傷つけることはできればしたくない。
笑った顔がとても可愛い人だと思うから、涙なんて似合わない。
「…ん…」
少し身じろぐように望美の肩がぴくっと反応した。
でもすぐに再び寝息が聞こえてきて、どうやら起きたわけではないらしい。
幸せそうに眠っている顔を見ると、起こすのは忍びなく思う。
しかしこのまま此処で寝かせていては風邪を引いてしまうだろう。
「……」
弁慶は少し考えた後、そっと望美を横抱きに抱き上げた。
抱き上げて、その軽さに驚いた。
華奢な人だとは思っていたけれど、改めて実感した。
この少女のどこにあの剣を振るう勇ましさがあるのか疑問が湧いた。
寝室まで運んで、床へと寝かせてやった。
少しだけ寝顔を眺めた後、五条にある庵へと帰ろうと腰を上げた。
すると…
「行かないで…」
小さく聞こえた声に視線を向ければ、うっすらと瞳を開けた望美がこちらを見上げていた。
起こしてしまったかと弁慶は苦笑した。
再び腰を下ろして、望美を覗き込んだ。
「望美さん、そろそろ僕は帰らないと…仕事が残っていますので」
仕事が一段落ついたところで京邸にやって来たが、まだ終わったわけではない。
弁慶を待っている患者はいくらでもいるのだ。
ここに来たのは、軽い息抜きをするためも理由である。
「…やだぁ、行っちゃやだ…」
「…望美さん」
どうやら寝ぼけているみたいだ。
舌がまわっていないような喋り方はまるで子供のようだ。
「我がまま言わないで…、さ、離してください…」
あやすように優しく語りかけたが、望美が裾を離してくれる気配はない。
嫌だと駄々っ子のように首を振る。
「…望美さん」
「だって…弁慶さんっ…私のこと…避けて…会いに来てくれないじゃないですかっ」
「……」
確かに避けていたといえば、避けていた、お互いにだが。
弁慶は望美に想いを告げられて、弁慶は振って、望美は振られた。
気まずいのは当たり前で、弁慶としては望美には元の世界に帰ってほしいと思っている。
頻繁に会いに来たり、下手に優しくするのは余計に傷つけてしまう。
だから避けていたのだが、それを望美は嫌だと、寂しいと訴えてくる。
「…君は…どうして僕が好きなんですか?」
「理由が必要ですか…?人が人を好きになるのに、愛することに…理由がいりますか?」
「…分からない…です。僕は、誰かを愛したことなど……ありませんから…」
愛なんてもの…誰がそれを永遠だと信じられる?
いつか終わるかもしれない想いに身を委ねるのか、それは君なら許されるかもしれない。
でも、僕の罪はまだ償いきれていない…いや、許される事なんてないんだろう。
少しでも多くの人の役に立ちたい救いたい、それがたくさんの命を犠牲にしてきた僕の償い。
そんな僕が…人を愛して、その人と幸せに暮らす…なんてできるわけない。
僕には人を愛する資格もなければ、愛されるなんて…とても…。
「…私は…弁慶さんにどんなに冷たくされても、嫌いになんてなれません。…好きです…弁慶さんが優しい人だって分かってるから…」
「…君は僕を買いかぶりすぎですよ…。もし…例えば僕が、無理やり君を犯したとしても…それでも君は僕が好きだと言うんですか?」
警告のつもりで冷たくそう言った。
そうすれば、彼女は怯えて僕に近づかないだろうと…そう思って。
「それでも好きです」
真っ直ぐと僕の瞳を見つけてくる彼女に嘘偽りはない。
本気でそう言っている。
「…愚かな人ですね…君は…」
そして…僕も…。
分かった…僕がこんなにも彼女を元に世界に帰したいか。
重荷なんだ…望美さんは…、彼女といると自分が酷く穢れたものに感じるから。
実際間違っていないが、そして勘違いしてしまう。
彼女が僕のすべてを受け入れてくれるみたいに、僕の罪もいつか許されるんじゃないかと。
「…君といると…僕は自分を甘やかしてしまうんです」
「駄目なことですか?自分を甘やかすことは」
さっきまで仰向けに寝転んでいた望美は、起き上がると弁慶の手を優しく包み込んだ。
手を通じて弁慶の冷たい手に、温かさが伝わってくる。
「あの…我がまま言ってもいいですか…?」
「何ですか?」
「弁慶さんと一緒にいたいんです…あ、別に私の気持ちに応えろとか…そういうのじゃなくて……だから、お仕事のお手伝いさせてもらえませんか?」
ここで弁慶は断ることも出来たはずだ。
しかし、眉を潜めてどうしてもとお願いしてくる望美に折れてしまった。
望美の気持ちに応えるつもりはない、だが、少しくらい優しくしてやってもいいかとそう思った。
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