裏
□天女の涙
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懐かしい夢を見た、夢の中の彼女はいつも僕に微笑みかけてくれる。
『いってらっしゃい、弁慶』
どうして君は僕を恨んでくれない…、せめて…夢の中だけでも詰って苦言の一つぐらい言ってくれてもいいのに…。
戦の最中は彼女の夢なんて一度も見なかったのに、最近になってよく見るようになった。
きっと、軍師を辞めてただの薬師となった僕に平穏が訪れたからだろう。
血で汚れた僕の手を、ぎゅっと握り締めてくれた彼女。
僕の咎を共に背負うと言ってくれた彼女。
こんなどうしようもない男を…愛してると言ってくれた…愛しい人…。
君を守れなかった僕に…どうしてそんなに優しい笑顔を向けてくれるのか…。
僕は…誰かに愛される資格なんて…誰かを愛するなんてこと……許されない…。
きっと君は今の僕を見て呆れていることだろう。
自分でも、自分のどうしようもなさには呆れてしまう。
でも……僕はそんなに器用な人間ではないんです…不器用にしか生きられない…。
此処は六波羅。
源氏の軍師は辞めたものの、弁慶や九郎、景時といったかつての仲間達との交流は途絶えることはなかった。
もう弁慶が源氏に関わることはないが、こうして時々九郎と酒を酌み交わすために六波羅に訪れることはしばしばあった。
今宵は雲ひとつない夜空に美しい満月が昇っていて、月見をしながら酒を酌み交わしていた。
「…弁慶」
「はい」
少し酒が回っているのだろう、九郎は顔を赤く染めていた。
それとは対照的に涼しげな顔をした弁慶がいた。
「お前…望美に仕事の手伝いをさせているらしいな」
「ええ、まぁ…。彼女がどうしてもと言うので…」
望美に薬師の仕事の手伝いをさせてほしいと言われた時、つい応えてしまった。
それでは…お願いします、と。
自分に真っ直ぐな想いを向けてくる望美に少し心を動かされたから他ならない。
でも、それは弁慶が望美のことを好きになったとかそういうものではない。
「…彼女が僕のせいでこの世界に留まっていることに…僕なんかに心を奪われてしまったことを哀れんでいるんですよ」
「お前…もう少し別の言い方はできないのか?」
「僕に優しさを求めるなら見当違いですよ。望美さんが思ってるような優しい男ではないんです、僕は」
弁慶は猪口に注がれていた酒を飲み干すと、新しく酒を注いだ。
今夜は随分と酒が進む。
きっと、あの懐かしい幸せだったころの夢を見たせいだ。
「…望美だけじゃない…俺も…お前は優しい奴だと思うぞ」
「九郎…僕、男はちょっと…」
「ばっ…!馬鹿者!!そういう意味ではない!」
予想通りの反応をしてくれる九郎に弁慶は笑んだ。
もちろん九郎が男色だなんて思っていない、真剣な顔をする彼を少しからかってやりたくなっただけ。
「冗談ですよ。源氏の御曹司がそんなにいちいち反応しない事です」
「っ…わかっている!それぐらい…」
今まで腹心として九郎を支えていた弁慶はもういないのだ。
今はだだの一介の薬師にすぎない。
これからは九郎は自分で物事を考えて行動することも必要となる。
そうやって成長していくことは源氏の御曹司として必要なことだろう。
「さて…僕はそろそろ帰りますよ」
「もう…帰るのか…?」
眠そうなトロンとした顔でまだ飲み足りないと言う九郎に苦笑する。
顔を真っ赤にして少し瞳が潤んでいてまるで幼子のようだ。
こんな主の様子を家来達には見せれないな…と。
「また誘ってくださいね」
「ああ…わかった。……弁慶」
「はい?」
「…望美の…こと……泣かす…なよ…」
そう言うと九郎は縁側だというのに寝息を立てて眠ってしまった。
こんな所では寝たら風邪を引いてしまう。
弁慶は仕方ないなという顔をしながら九郎を背負うように抱え上げて寝室に運んでやった。
華奢に見える弁慶だが、軍師として薙刀を振り回していただけのことはあって力はあるのだ。
「…泣かせたくないから、優しくしないんですよ…遠ざけたいんです…」
冷たくしても、彼女は逆に僕に近づいてくる。
そして僕に屈託のない笑顔を向けてくる。
そんな顔をされてら…優しくしてしまいそうになる。
「…いざとなったら…君が彼女を支えてあげてください…」
僕の心は、誰にもあげることはできないから。
誓ったから、あの日に、あの時に。
『貴方が好きよ…弁慶』
僕の生涯でたった一人の……唯一の愛した人に…。
* * * *
この世界では京邸で過ごしている望美だが、弁慶の手伝いをするようになってからは稀にそのまま彼の生活する庵に泊まることもあった。
もちろん、景時や朔は大反対した。
年頃の娘が、一人暮らしの男の元に泊めるなんて捕って喰われても文句は言えない。
しかし、それに関してははっきりと弁慶が否定した。
僕は望美さんに手を出すほど飢えていませんよ、と。
それは、もし飢えていたら手を出すのかと突っ込みたい所だったが怖くて聞けない。
望美の気持ちとしては、弁慶になら別に構わないとうのが本音だ。
もちろん、気持ちが通じてないのに身体だけなんて…悲しくてしかたないが。
相変わらず自分の方を見てくれない彼に対して、これから先想いが通じる日が来るのか…。
自身なんてものはないし、先に見えないこの世界での生活だって不安だ。
でも、今はただ彼の傍にいられる幸せを噛み締めていた。
「弁慶さん、この薬草ですか?」
「ええ、そうです。望美さんは本当に覚えが早いですね」
今日は弁慶と共に薬草を摘みに来ていた望美は彼に満面の笑みで微笑んだ。
二人っきりで一緒にいられて、彼の役に立てて嬉しく仕方ないのだ。
つい、口元が緩んで浮かれてしまう。
「私でお役に立てるならいつでも呼んでくださいね!」
「ありがとうございます…」
嬉しそうな望美とは違い、弁慶の心境は複雑だ。
望美が元の世界に戻ってくれることが弁慶の望みだ。
此処まで懐かれてしまったは、これ以上一緒に過ごすことはきっと良くない。
でも、毎日手伝いとしてやって来る望美を拒むことができないのだ。
「…ねえ、望美さん」
「はい?」
「何度も言っているのでわかっているとは思いますが、僕は…君の気持ちには応えられません。…いい加減、僕の傍にいることは嫌になったりしませんか?」
薬師の仕事は楽ではないのだ、いつやって来るかわからない患者達。
診療だけではなく、怪我の手当て、薬草を磨り潰して調合して精製もする。
そんなことを毎日手伝わされている。
いくら好きな男のためといっても、その男は自分には見向きもしない。
普通、嫌にもなるだろう。
「元の世界に帰らないなら、それでもいい。でも、何も僕を選ぶことはないんです。もっと…別の」
「嫌です」
弁慶の言葉が遮られて、望美はハッキリと嫌だと言った。
その『嫌』はどの言葉に掛かるものだろう。
弁慶の傍にいることが嫌になったという意味か、それとも…。
「私、元の世界に帰るのも、他の人を選ぶのも嫌です」
「…望美さん」
「弁慶さんが私の気持ちを受け入れてくれないのは仕方ないことです…人の気持ちはそんな簡単なものじゃないもの…。でも…それと同じで私だって弁慶さんが大好きなんです、他の人に変えるなんてできません」
揺るぎない強い瞳をした望美の視線が弁慶に突き刺さる。
思わず、顔を逸らしてしまった。
心の中で大きな溜息を零した、どうすればこの人は自分を諦めてくれるのかと。
『僕が、無理やり君を犯したとしても…それでも君は僕が好きだと言うんですか?』という質問に、望美は『それでも好きです』と応えた。
確かにあの時の望美の瞳には偽りがなかったが、実際無理やりそんなことをされて同じことが言えるのか…。
――…駄目だ…何を考えているんだ、僕は…。
それは男として、いや…人として最低の行為だろう。
自分は罪深い人間だが、そこまで堕ちてしまいたくない。
「…君には負けますよ…本当に…」
「私はなんたって、元白龍の神子ですから!」
「そうでしたね。そして僕は神子に仕える八葉…どうりで敵わないわけです」
皮肉のつもりだったが、望美には伝わっていないようだ。
「さっ、もう薬草は十分集まりましたよね?帰りましょう!」
笑顔で弁慶の腕を引っ張る望美に彼は苦笑しながらも頷いた。
この腕を振り解くことができないのは、望美の気持ちを迷惑だと思いきれない自分がいるから他ならない。
ただ、そのことに弁慶自身はまだ気付いていない。
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