裏
□天女の涙
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笑って誤魔化せてしまえるものならばそうしたかった。
『…謝るぐらいなら……本当に弁慶さんの奥さんにしてほしいです……してください…』という言葉を。
でも、できる分けなかった…彼女があまりに真剣な瞳で僕を見詰めてくるから。
誤魔化したりなんてしたら、彼女の気持ちを踏みにじることとなるだろう。
望美さんの僕への想いは諦めてほしいと思っているけど…できれば傷つけたくない。
好きだという気持ちを迷惑だと思っているのに、彼女に嫌われたくないと思う自分がいる。
矛盾してるということはわかっている…、けど笑顔でいてほしい、望美さんにはいつだって笑っていてほしい。
「……望美さん」
弁慶の呼びかけに、望美はぴくっと身体を揺らして大きな瞳を見開いた。
長い間沈黙していた弁慶が口を開いたことに、少し驚いたようだった。
「…僕は」
「ご、ごめんなさい!!困りますよね…こんなこと言われても……弁慶さんはずっと私の気持ちには応えられないって言っていたのに。……私こそ…ごめんなさい……」
弁慶の言葉を中断させると、食べかけの食事をそのままに望美は立ち上がって食器を片付け始めた。
弁慶が止めようとすると、「もう…お腹いっぱいですから。弁慶さんはゆっくり食べてください」と言って居間をそそくさと出て行ってしまった。
残された弁慶は俯きながら小さな溜息を零した。
傷つけてしまった、無理をさせてしまった、それは痛いぐらいに伝わってきた。
これではどちらが大人かわからない、自分よりも八つも年下の望美の方がずっと人のことを優先して考えている。
弁慶に迷惑をかけないように、困らせないようにと、これ以上話を深く話を言ってこなかった。
望美の気持ちに応えてやれない自分がもどかしい、でも同情で気持ちに応えることが優しさか?
――僕は…望美さんの気持ちには応えられない…、僕の心には…ずっと彼女がいるから……。
思い出すのは、昔の記憶。
二人で過ごした五条での生活…、短い間だったけれど愛し合った思い出。
そして……両手に広がる真っ赤な鮮血。
「…望美さん……僕は…」
他人が過去の優しい思い出に囚われるのは哀れなことだと思うのに、自分はどうだ。
こうして度々、過去の幸せだった頃のことを思い出し引きずられている。
戦の最中はよかった、そんな過去のことなんて思い出して浸っている余裕もなかったから。
平和を手に入れると嫌でも鮮明に蘇るのだ、かつて隣にいた愛しい人を…守れなかった自分を悔やむ。
「…いい加減、僕も前に進まないといけませんね……」
忘れよう…彼女のことは…もう過去のことなのだから。
今、僕を見てくれている人を大切にしなくてどうする。
望美さんなら…きっと忘れさせてくれる……囚われた過去の思い出から…僕を解き放ってくれる…。
…きっと…。
* * * *
望美が五条の庵に泊まることは何度もあったが、今まで寝所は別々だった。
それは夫婦でも恋人でもない男女が同じ空間で眠るなんてわけにはいかないからだ。
お互いにその気がなくても、やはり部屋を分けるか敷居を立てることは必要なこと。
気まずいまま、望美はいつも寝室として使わせてもらっている部屋に閉じ篭ってしまった。
同じ世界にいられれば、傍にいられればいいと思っていたのに、人とは強欲だ。
願いが叶うともっと先を願う、同じ世界にいられれば、隣にいたいと願う、そして触れたいさえ願ってしまう。
「……失敗したなぁ……もっと…仲良くなってからもう一度告白しようと思っていたのに…」
小声で自分に呟くように望美は声を詰まらせた。
弁慶の仕事の手伝いをしたいと言い出したのだって、傍にいられる口実の他ならない。
今ではその考えは、一生懸命に働く弁慶に対して失礼なものだと考え直した。
もちろん弁慶の傍にいたいという気持ちはあるが、困っている人々のために役に立ちたいと思うようになった。
そして、弁慶の役に立てるならば少しでも知識を身に付けて、助けになりたい。
弁慶のように知識を身につければ、望美はこの世界でも一人で生きていくことができるかもしれない。
京邸の景時や朔は良くしてくれているが、ずっと世話になったままでは嫌なのだ。
いつかは京邸を出て一人で暮らして、弁慶の傍にいられればと思っている。
「…寝よう…明日は弁慶さんと普通にしよう…」
ずっと気まずいままなんて嫌だ。
明日、朝起きたらいつも通り「おはようございます」と挨拶をすれば弁慶も普通に返してくれるであろう。
今日のことはもう忘れたことにして、今まで通りにしたい。
焦らずに、ゆっくりと弁慶に自分の想いが伝わるように頑張ろうと、望美は褥に身体を預けた。
元の世界のようなベットの無く、ふわふわの布団も、柔らかい枕もない。
でも、もっと素晴らしいことを望美は知っている。
どんなに豊かな生活や便利な機械や科学が発展していても、この世界にいたいと引き止めるものが。
仕方ないではないか、心なんてそう簡単に変えられない、愛しいという想いは募るばかりなのだから。
「…好きなんだもん…諦められないよ…」
弁慶は望美にとって初恋の人だ。
初めての恋にのめり込んでしまっていると言われれば否定はできない、けどそれはそんなに悪いことだろうか。
恋にのめり込んではいけないなんて、そんな法律はどこにもないのだ。
むしろ、好きなものを好きと主張して何が悪い。
我慢して、溜め込んで、何もしないまま終わってしまうよりずっと良いだろう。
控えめで、おしとやか、そんな女性像をすべての女に求められて困る。
同じ人間なんてどこにもいないのだから、誰にだって自分だけの良さというものがあるのだ。
弁慶には弁慶の、望美には望美の自分というものがあり、良い所も悪い所もすべて含んで一人の人間なのだから。
「おやすみなさい、弁慶さん…」
隣の部屋でまだ薬を作ったり、書物を読み耽っているであろう弁慶に聞こえないぐらい小さな声で呟いた。
灯りを落とそうと手を伸ばしかけた所、この部屋の襖が微かな音を立てて開かれた。
「…弁慶さん?」
襖を開けて、静かに部屋の中に入って来たのは弁慶だ。
夜にこうして弁慶が望美の寝室として使っている部屋に入ってくることは初めてだ。
気まずい状態になっていることを忘れてしまったわけではないが、いつもとどこか様子が違う弁慶に、望美は伏せていた身体を起き上がらせて近づいた。
どうかしたのだろうかと、弁慶の瞳を覗き込むと不意腕を引かれ抱き締められた。
「え……え?」
状況が飲み込めずに、目を丸くする望美に弁慶は抱き締める腕の力をさらに強くした。
「…いいですか?君を僕の奥さんにしても…」
弁慶の口から紡がれた言葉に、望美は一瞬冗談かと耳を疑った。
しかし、彼はこういう冗談をいうようなひとではないのだ。
つまり、本気だということ。
「…君を僕の手で女にすることを許してくれますか?」
鼓動が増して跳ね上がる胸、じわじわと熱が篭って望美の顔が赤く染まった。
「わ…私のこと…好きになって、くれたんですか?」
「好きですよ」
――ごめんなさい、正直、今はまだ……かつて愛した彼女のことを忘れ切れていない。
でもこれからは君を見詰めるから……彼女のことは過去にしてみせるから。
それまで……君に嘘の愛を囁く僕を許して。
君を大切にして、いつかは君を愛するから…。
「っ…本当に?」
「はい。…好きですよ、望美さん」
「…っ…嬉しい……弁慶さんが私のこと…」
翡翠の大きな瞳から流れる涙を拭うように目尻に口付けを落とす。
それでも拭いきれないぐらい涙は溢れて床に染みを作った。
抱き締めていた腕を解いて、望美の頬を包み込み優しい口付けを送ってやった。
弁慶は数回触れるだけの口付けを繰り返し、ゆっくりと望美を褥に押し倒した…。
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