□欲しいのは君の微笑み
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別に自分が天才だなんて思ったことはない。

しかし、自然に周りが声を揃えて君は天才だと褒め称える。

ありがとうございますと笑顔で返すが、心の中では煩わしいとしか思っていない。

頭も良くて容姿も端麗で女に苦労なんてしないんだろうな、と正面に向かって言えない者達の陰口も聞こえたがどうでも良かった。

僕は何に対しても本気になれない、いつもどうでもいいとやる気が出ない。

こんな人間が生きているのに何の価値があるのかわからない。

流されるままに大学を卒業した後、僕は国を出て海外で働くこととなった。

英語は得意ではなかったが、決して苦手でもなかったから、別にいいかとそんな軽い気持ちだった。

気がついたら数年が経っていて、僕は二十五歳になっていた。

その間、一度も帰国しなかった僕に父や兄からはたくさんのエアメールが届いたが一度も開くことはなかった。

忙しかったからではなくて、ただ何となく。

そんな僕が自国に帰るキッカケになったのは一本の電話だった。


『弁慶っ…!大変だ、すぐに帰って来い!親父が…親父が…!!』


事故だった…。

ボール遊びをしていた小さな子供が道路に飛び出してしまい、迫り来る車から子供を庇い父は重体となった。

お人よしで、誰に対しても優しさを忘れない父らしい行動だった。

急いで帰国した僕が父が入院している病院の病室に駆けつけると、そのには見たことのない女性がいた。

意識の戻らない父に付き添うように寄り添い、美しい翡翠の瞳には涙が滲んでいた。

こんな時だというのに、思わずその女性に目を奪われた。

それが僕と…望美さんの出逢いだった…―。

僕が帰国して後…父は意識が戻らぬまま帰らぬ人となった。

父が庇った子供はかすり傷だけですみ元気だ。きっと父も天国で誇らしげな顔をしていることだろう。

葬儀の喪主は僕の兄が務め、親族だけでしめやかに行われた。

僕も、兄も、他の親族達も皆当然悲しみにくれていたけれど、大人という仮面が涙を堪えさせた。

しかし、その中で人目を憚らずに泣きじゃくる女性がいた。


「っ…うっ……ひくっ…」


紫苑の長い髪は纏められることなく乱れていて、誰かに支えられなくては立っていられないほど憔悴していた。

その女性の名前は望美さん…父の後妻で僕の義理の母である。

母は若くして病気で亡くなり、父はずっと一人だった。愛した母のことが忘れられなかったらしい。

しかし僕が海外に仕事に行っている間に出遭った女性と再婚することとなった。

歳を聞いたときはさすがに驚いた、まだ二十歳の女性だというから。

義理の母ということだけど、僕よりも年下の女性を『お義母さん』なんて呼べるわけない。

兄は彼女のことを望美ちゃんと呼んでいるし、僕も望美さんと呼ぶこととした。

父が骨となり納骨も済ませて、ようやく我が家は落ち着きを取り戻しつつあった。

また海外へ戻るのか?と兄に問われた時、「はい」と即答できなかった。

二十歳という若さで夫を失い未亡人となった彼女が心配で堪らなかった。

涙が枯れてしまうまで泣きじゃくり、やつれて、今にも父の後を追いそうな女性を一人にできなかった。


「僕はここに残ります、兄さん」


海外に戻ることはしなく、僕は残った。

そして現在、義母である彼女と二人で暮らすという少し奇妙な生活を送っている。

周りから見ればさぞおかしく見えることだろう。

なぜなら、父と望美さんは実はまだ籍を入れてはいなかったのだ。

籍を入れようと決めていた前日に父が事故に遭ってしまい、結局そのまま亡くなってしまったから。

つまり赤の他人同士なのだ、僕と彼女、藤原弁慶と春日望美は。

それでも僕達はお互いに義理の母と義理の息子としての関係を保ちながら暮らしている。

きっと、それを越えてしまえば僕は彼女の傍にいられなくなってしまうから…。

だから彼女に触れたいなんて、感情を持て余してしまっても必死に耐える。

我ながら不毛な恋をしたものだと思う、義理の母だなんて…他の男を…自分の父を想う女性にだなんて…。










欲しいのは君の微笑み










鳴り響く目覚まし時計の音を止めてベットから起き上がったのは紫苑の長い髪をした女性、名は望美。

小さく欠伸をしながら腕を伸ばして、キッチンへと向かうと冷蔵庫の中身を確認する。

「あっ」と少し大きな声を出して、顔をしかめた。

食べ物の買出しは望美の仕事だ、それなのに冷蔵庫の中身はろくなものがない。

自分の朝食は別に無くてもいいが、一緒に暮らす“彼”のぶんが用意できないとなると困った。


「どうしよう…」

 
今から買出し…というわけにはいかない。

近所のスーパーは二十四時間営業なので朝早くに言っても問題ないが、望美は大学に行かなくていけなくそんな時間はない。

何かないかと辺りを見回せば、テーブルの上にいくつかのパンが置かれていた。

望美はそれを買ってきた覚えが無い。とすれば彼が買ってきたのであろう。

そういえば昨夜、彼は仕事の帰りが遅くて望美は先に休んでしまったのだった。


「好きなのを食べていいですよ、貴方の分もと思って買ってきましたから」


ふいに後ろからかけられた声に振り向けば、寝巻きのまま寝癖のついた髪の青年がいた。


「弁慶さん!」

「おはようございます、望美さん」

「ご、ごめんなさいっ!私…買出しを忘れていて…」

「いいんですよ、そんなこと。貴方にはいつも申し訳なく思っているんです、食事だって、僕も手伝いを…」


家事全般は自分がすると言い出したのは望美だった。

それはこの家で暮らす自分に何かできることをしたかったから。

本来のこの家の主はすでにもういない。弁慶の父親で、望美の夫であった人その人はこの世にはいないから。

主なき家に、現在住んでいるのは義理の母と義理の息子の二人。

血の繋がりは一切なく、歳だって息子である弁慶の方が年上であるという変わった関係。


「弁慶さんはお仕事忙しいんですから、家事ぐらい私に任せてください!」

「…望美さんも大学が忙しいでしょう。疲れたときは遠慮なく言ってくださいね…?僕達は仮にも親子、なんですから」


自分で言っておきながら、『親子』という言葉に胸が痛むのを弁慶は感じた。

本当は抱き締めて想いを伝えてしまいたい、けれど望美がいまだに自分の父のことを忘れられていないことはわかっているから…。

一度拒絶されしまえば、きっとそれが最後だ。だからこの家族ごっこを続けている。

貴方という呼び方だって年下の望美を、年上をして、義理の母として扱うために使っているのだ。


「はい。弁慶さんは私の大切な人ですから、何か困ったりしたら一番に相談しますね」

「ええ…いくらでも頼って下さい。僕にとっても貴方は大切な女(ひと)ですから…」



同じ大切という言葉でも…君と僕とでは意味が違うんだろう。


君は僕のことを愛する人の息子だから、大切だと思ってくれているんだろうけど…僕は違う。


僕は君が義理の母だから大切に思っているんじゃない…。


君だから愛しいんです…。



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