短編

□愛しい寝顔に
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愛しい寝顔に







穏やかな時間も、誰かを愛しいと想う気持ちも、僕に与えてくれたのは君だから。

僕は君のためなら、どんな苦労だって構いはしないだろう。

『弁慶さんは働きすぎです!』と、君はいつも僕にそう言うけどそんなことないんです。

軍師だった時と比べれば、今の薬師としての日々はとても幸せで毎日が充実している。

そして何より、君が僕の傍にいてくれるだけで疲れなんて飛んでいってしまうんです。

君といる時間がどれほど僕を癒してくれているか、望美さん本人には自覚はないんでしょうけど。

同じ世界で、共に生きる幸せ、満たされる心。

僕がこんな幸せな日々を手にできるなんて想像はつかなかった。

一度この日常を、君を、手にしてしまった僕は君を失うことは耐えられない。

だから望美さん、これからもずっと僕の傍にいてください。

離れないで、もし離れてしまうと言うなら僕はどこまでも君を追いかけます。

それぐらい、僕は君に溺れてしまっている。

虜になってしまっているんです。








彼女が僕の元に残ってくれて一年という月日が経とうとしていた、ある晴れた秋の日。

僕は先程から姿が見えない妻を探していた。


「望美さん…望美さん、どこですか?」


いつもなら、『は〜い』と元気な声が返ってくるのにその気配はない。

おかしいなと首を傾げながら、僕は先ほどまで縁側で縫い物をしていた彼女の元へと足を運んだ。

襖を開けると、視線に入ってきた望美さんに思わず笑みを零す。


すー…すー


そこには仰向けになって、小さな寝息をたて眠っている彼女がいた。

閉じられた瞳は開く気配はなく、随分深く寝入ってるようだった。

疲れているのだろう…と、弁慶は望美を起こさないようにそっと隣に腰を落とした。

最近、望美は弁慶の診療の手伝いをするようになった。

そして家事だって弁慶も協力してはいるが、主体は望美だ。

弁慶としては傍にいてくれるだけで十分なのだが、望美は「はい、そうですか」と納まってくれる娘じゃないのだ。

薬草の知識だって、自分から進んで弁慶に教えてほしいと言ってきた。

少しでも役に立ちたいという望美の気持ちが嬉しくて、少し甘えすぎていたかと弁慶は苦笑した。


「望美さん…」

「………すー…」


無防備な幼い顔で眠っている少女はとても、数々の戦いを乗り越えてきた白龍の神子には見えなかった。

今は、本当にただの一介の薬師の妻だ。


「さて…困りましたね」


時刻は夕暮れ、少し太陽が沈みかけている。

気持ちよさそうに寝ていて起こすのはかわいそうだと思ったが、このままでは風邪を引いてしまい兼ねない。

季節は秋だが、じきに冬がやってくる。

風は少し肌寒く感じる。


「望美さん…起きてください」


肩をそっと揺さぶるが、望美は一向に起きる様子はない。

どうしたものかと一瞬考えて、弁慶は起こすことは諦め望美をそっと抱き上げた。


ふわっ


軽い…、まるで羽のようだと感じた。

望美はとても剣を振るっていたと思えないほど華奢だ。

慣れない世界にいきなり来て、神子として怨霊を浄化し、剣を抜き戦った彼女。

自分の想いに答えてくれて、今、こうして一緒に暮らしているのが夢ではないかと思う。


「もし…君に出遭えなかったら僕はどんな人生を送っていたんでしょうね」


軍師を続けていたか、もしくは今生きていたかさえわからない。

もし…望美と出遭わなかったらと考えると鳥肌が立った。

望美がいない生活なんて考えられない、想像がつかない。

自分の命でさえ平和のためなら捧げる覚悟があったのに、望美を失うことは耐えられない。

こんな風に不安になるのも、今があまりに幸せすぎるからだ。

それぐらい、望美が大切なのだ。

弁慶は望美を寝所に連れていき、そっと褥に下ろした。

望美のことは寝かせておいて自分は夕餉を作ろうと寝所を後にしようとした、その時。


「…弁…慶…さん…」

「望美さん?」


望美を覗き込んでみるが、瞳は相変わらずしっかりと閉じられている。

どうやら、寝言のようだ。


「…僕の夢を見てくれているんですか…?」

「…ん…」


弁慶は望美の頬にそっと手を触れる。

寝顔を見ながら、弁慶は胸が温かい気持ちでいっぱいになるのを感じた。

たくさんの罪を重ねてきた自分にこんな幸せな日々が訪れるなんて…。



「君のおかげです…望美さん」


弁慶は今だ眠っている愛しい妻に顔を寄せそっと口付ける。

触れるだけの口付けを数度繰り返して、お互いの額をコツンと合わせた。

望美は一瞬身じろぎしたが、まだ目を覚まさない。


「愛してます…望美さん」


昔の弁慶は、「好き」や「愛」といった言葉を使うのが好きではなかった。

それは、自分とは一生縁のない言葉だと思っていたから。

でも、今は惜しみなくその言葉を何度も紡いだ。

本当は言葉なんかでは足りないぐらいの気持ちだが、表す言葉がそれしかないから。

今度は深く、深く、口付ける。

歯列をなぞって舌を絡めとれば、閉ざされていた瞳がバッと勢いよく開いた。


「ん…っ…んん!!?」


望美が目を覚まし、息苦しそうに弁慶の胸を押しかえしてきた。

名残惜しみつつも、弁慶は望美から唇を解放してやった。


「っ…はぁ…弁慶さん?」

「おはようございます、望美さん」


弁慶は悪びれた様子を見せることなく微笑んだ。


「なっ…な、なにするんですか!!人が寝ている時に…!」

「ふふ…君があまりに無防備な可愛い顔で眠っているからですよ」


望美はカッと赤くなり、怒ってるのか照れてるのか分からなくなっていた。


「もう…!また、弁慶さんはそんなこと言って…」

「君は可愛いですよ…誰よりも可愛い」


望美はさらに顔を真っ赤に染めた。

弁慶はさらっと恥ずかしい台詞を言うので、望美はいつも振り回されてばかりだ。

そういえば、彼の甥であるヒノエも似たような所があるが熊野の男は皆こうなのであろうか。

いや、同じ熊野出身でも敦盛は彼らとは違う。

となれば、これは血縁か。


「…あ!私、御飯作らなきゃ…」


望美は、その場から逃げる理由を思いついたように立ち上がり弁慶の傍から離れようとした。

しかし、片手をしっかり弁慶に掴まれていて適わなかった。


「…弁慶さん…手、放してくれないとご飯作れないです…」

「今はご飯より君が欲しいです」

「っ…!!」


望美は開いた口が塞がらない。

この人ならせめてもっと遠回しな言い方ができたはずなのだが、あまりの直球な言い方だ。

もちろんそういう関係にはとっくに至ってはいるのだが、望美は未だに恥ずかしさが抜けきらない。


「なっ…何言ってるんですか!!」

「駄目、ですか…?」


と弁慶は少し悲しそうな瞳をして望美を見つめてきた。

そう、望美は弁慶のこの目に弱いということを知っているから。

その瞳はずるいと思いながら、彼に愛してほしいと思っている自分がいることを望美は自覚している。


「……駄目じゃない…ですよ」

「ありがとうございます」



真っ赤な望美と対照的に、さわやかに満面の笑みを浮かべる弁慶。


結局この晩、二人が夕餉を食べられなかったのは言うまでもない。








END

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