長編
□抱き締めて、囁いて
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「あのね、弁慶さんと付き合うことになったの」
雲一つない青い空に、夏の少し眩しい太陽が照らしている。
昼休みの屋上にはたくさんの生徒たちが楽しそうに談笑しながらお弁当を食べている。
その片隅に望美と朔はいる。
「え…?」
朔が口に運んでいた箸をピタリと止め、望美に視線をやった。
「だからね、付き合うことになったの…弁慶さんと」
望美は照れながらも嬉しそうに小声でポツリと呟いた。
「そう…良かったわね」
朔の心境は複雑だった。
望美が弁慶とは高校に入る前からの知り合いだということも知ってるし、ずっと想いを寄せていたことも知っている。
本当なら一緒に喜んであげたいのだが、うまく喜んであげることができない。
何故なら、いつも学校で行動をともにしている、男、二人…ヒノエと敦盛のことが気がかりだった。
敦盛は恋というには淡い想いを望美に抱いているようだったが、ヒノエは明らかに違った。
本気の熱い情熱が灯った想いだと、朔も見ていて分かった。
「朔、あんまり驚かないんだね」
「え…ああ、びっくりしちゃって逆に呆気を取られたのよ…」
「…朔…もしかしてヒノエ君のこと気にしてる?」
朔は思わず瞳を見開いてしまった。
望美には時々こんな風に、鋭い勘を見せられ驚かされる。
「図星だね…朔は知ってたんだね、ヒノエ君が…私のこと好きだって」
「…ええ、気付いてなかったのはきっと望美だけじゃないかしら。…貴方は勘が鋭いけど、こういうことには鈍いから」
「…私ってやっぱり鈍いのかな。…あのね、ヒノエ君にね告白されたの」
望美が言わなくても朔はちゃんと気付いていた。
ヒノエが望美に告白したということは…。
いつもならヒノエと敦盛も加わって4人で昼食を取る。
しかし、ヒノエは「ちょっと用事があるから」と避けているのだ。
ヒノエを気遣って、敦盛はヒノエの様子を見てくると行ったままだ。
おそらくヒノエは避けているつもりではなく、望美を気遣っているつもりなのだろう。
それを感じて、望美も少し眉が下がっている。
「…でもね、ヒノエ君の気持ちには答えれない。私は…弁慶さんが好きだから…」
「ええ…望美は間違ってないわ」
「…ヒノエ君、私ともう一緒にいたり話したりしてくれないかな…?」
「そんなことないわ、大丈夫よ。すぐに前みたいに戻れるわ」
そうかなぁ…っと泣きそうな声を出す望美を朔は優しく頭を撫でてやった。
大丈夫よ、と言い聞かせる母親のように。
一方。
その頃、ヒノエと敦盛はというと…
「ヒノエ…どこへ行くんだ?」
ヒノエがどこに向かっているのかも分からず、敦盛はただひたすら付いて歩いていた。
普段、口数が少ない敦盛だが今に限っては何とかヒノエを励まそうと口を開いた。
「別にお前はついて来なくてもいいよ、敦盛」
「いや…しかし」
ヒノエも敦盛が気遣ってくれているということは分かっているが、あまりに心配そうな顔をされると申し訳なくなってしまう。
はぁ…そりゃ、まだ望美のことは好きだ。
しかも、選んだ相手は胡散臭い、あの叔父。
…悔しくないはずもないが、それでも望美が笑っていてくれるなら…俺は…。
「敦盛、俺のことなら心配いらないから」
「…無理は良くない」
クッっとヒノエは苦笑した。
ヒノエと敦盛は小学校の頃からの幼なじみだ。
さすが、付き合いが長いだけに自分のことはよく分かっている。
「無理、か。…じゃあ、ちょっと鬱憤を晴らしに付き合ってくれよ」
「え…?ああ…」
そう言ったヒノエがどこか鋭く黒い目つきを見せたことで敦盛は一瞬ゾクっとした。
そして、今ヒノエが向かっている先がピンっと勘付いた。
…ああ、おそらく…いや、間違いなく保健室だろうな…。
ヒノエと幼なじみである敦盛は弁慶とも面識はある。
そして、この二人の仲が悪い…と、まで言わなくても良くないことは知っている。
おそらく、嫌味の一つでも言わなきゃ気がすまないのだろう。
「ヒノエ、気が晴れたら望美とは今までみたいに戻れるのか?」
「戻れるじゃなくて、戻すんだよ。…俺だって望美と前みたいに普通に一緒にいたいさ」
「そうか…なら早く晴らしてしまおう」
「ああ…!」
敦盛の予想通りヒノエが向かった先は保健室だった。
生徒はドアをノックするのが通例なのだが、今のヒノエはそんなの関係ないと言わんばかりにガラッと大きな音を立ててドアを開いた。
保健室に入ったヒノエは、目に入った光景に嫌気がした。
何人いるだろう、少なくとも十人程の生徒が弁慶の周りを囲っていた。
しかも、見事に女子生徒ばかりだった。
二人が入って来たことに気付いた弁慶は周りの女子生徒に「彼らと大事な話があるので…」といって保健室からやんわりと出ていかせた。
「…ヒノエと敦盛君ですか。君たちがここへ来るなんて珍しいですね」
不機嫌な顔を隠さないヒノエに、弁慶はいつもの余裕の笑みを見せ、敦盛はハラハラしていた。
「…どうかしましたか、僕に用なんじゃないですか?」
「あんた…望美がいるのに、あんな他の女を囲って…いいご身分だな」
「彼女たちはただの生徒ですよ」
弁慶は“ただの”という所を特に強調して言った。
「あんたがそう思っていても、さっきの奴らや望美に悪いとは思わないのかよ!?」
ヒノエは声を荒げ、机をダンッっと叩いた。
それに対して弁慶は淡々と答え返した。
「彼女達にはさっき、用事がないときにもう保健室には来ないように言いました」
僕だって変に期待させてしまうのは悪いと思っていますからね…と続けた。
「それに…望美さんを不安にさせたくない。ただでさえ、お互いの立場で学校では気を使わせてしまっていますから…。」
そう言った弁慶の顔は、とても穏やかで…ヒノエが今まで見たきた叔父の顔ではなかった。
誰かを慈しむような、優しい顔をしていた。
……あんたもそんな顔できるんだな。
はあ…俺って損な役回りだな…本当に嫌になる…。
大きな溜息を零した後、ヒノエは弁慶に背を向け吐き捨てるように言った。
「…望美を泣かせたら、許さねーぞ」
…もし、あんたが望美を傷つけるようなことがったら…その時は俺が望美を浚っていってやる。
そして、あんたより俺の方がずっといい男だったことを教えてやるよ。
保健室を出て行こうとするヒノエに弁慶はポツリと呟いた。
「…肝に免じておきます」
●○●○
屋上で昼食を食べていた望美と朔。
お弁当を食べ終えた後は、女子高生らしく恋の話をしていた。
朔はずっと付き合っている彼氏のこと、望美はもちろん弁慶のこと。
弁慶との出会いから、今に至るまでの話をした。
「望美、そろそろ教室に戻りましょう」
朔が腕時計を見ると、時刻は午後の授業開始の十分前を指していた。
「あ、朔…私…」
「あら、野暮だったわね、ごめんなさい。藤原先生の所へ寄って来るのね」
「うん…!」
望美は照れながらもしっかりと頷きいた。
朔とは途中の廊下で別れ、望美は保健室へと急いだ。
もうあまり昼休みの時間もないので望美は少し駆け足で走った。
『僕に会いたくなったら、いつでも保健室へ来てくださいね』
そう言われたのは、二人が想いを交し合った時のこと。
お互い忙しく、一緒に過ごす事もなかなかできないことを気遣って弁慶が言い出した。
他の女子生徒のことを気にしていた望美に弁慶は、「彼女たちには用がない時には来ないように言っておきます」と言った。
もう、僕は君だけのものですから…と囁かれたことを思い出せば、今でも頬が赤くなってしまう。
保健室のドアの前に着くと、呼吸を整え、ノックしようと手を伸ばした。
しかし、聞こえてきた声に思わずドアをノックしようと思った望美の手が止まった。
「好きです…!」
一瞬、手が震えて息が詰まった。
そっと、ドアに耳を寄せて話し声を聞き取る。
「ずっと…藤原先生が好きでした…」
「君は憧れと恋愛を勘違いしているだけですよ」
女子生徒の声と一緒に弁慶の声も聞こえてきた。
いつも望美に向けられる優しい声とは違い、少し戸惑いを感じた。
「違います!私は本当に先生が好き…」
「ありがとうございます、気持ちは嬉しいですが…答えられません」
「…先生、少し変わったね」
「え?」
「前から優しかったけど…何だか今すごく優しい顔してる…」
「ふふ…君もいつか君だけをちゃんと見てくれる人が現れます、そしたら分かりますよ」
「…先生はそんな人がいるんだ?」
「ええ…とても大切な人です、愛してます…」
トクン…
望美は胸が熱くなり、鼓動が早まったのを感じた。
「先生…その人のこと大切にしてあげてくださいね」
「大切にします…ずっとずっと」
足音がドアに近づくのを感じ、望美は慌ててドアから離れ廊下の曲がり角に隠れた。
幸い保健室から出て行った女子生徒は望美がいる方とは反対側に歩いていったようだ。
辺りに誰もいないこと確認すると、望美は保健室のドアを叩いた。
すると、「どうぞ」と言う弁慶の返事が聞こえた。
望美が中に入ると、弁慶は驚いた顔をしてこちらを見た。
「君…でしたか」
「え?」
「さっきからずっとドアの所にいましたよね」
「…!!気付いてたんですか!?」
「はい、でも君だとは思っていませんでした」
弁慶はふと顎に手を当て何かを考えるような仕草をすると、椅子に座ったまま望美を手招きした。
望美が首を傾げると、「おいで、おいで」と再び手招きされた。
招かれるまま近づくと、椅子に座った弁慶を望美が見下ろす形にになる。
すると、急に腰に手を回されたかと思うと…
「えっ…きゃあ!」
まるでお姫様抱っこをされたような形で弁慶の膝の上に降ろされた。
「ちょ…弁慶さん!!」
顔を真っ赤に染める望美をよそに、弁慶は楽しそうに笑っていた。
「望美さん、そんなに大きな声を出すと誰かに聞かれますよ」
「っ…!」
望美は慌てて自分の口を手で押さえた。
クスクスと楽しそうに笑う弁慶を望美は悔しそうに睨んだ。
「…弁慶さん降ろしてください」
「いいじゃないですか、恋人なんですから」
…そういう問題じゃなくて、恥ずかしいんだって…!
「ねえ、望美さん」
「はい?」
「さっき…僕と生徒の方との会話、聞いていましたよね?」
「…一応」
「意地悪な人ですね、君は…」
そっぽ向いている望美をこちらに向かせるため腰に回していた手を顎に捉える。
視線が交わることが恥ずかしくて、望美は少し瞼を閉じてしまった。
「僕の気持ち…聞いていたんでしょう?」
「…あれは、不意打ちです」
「それでも聞いてしまったのでしょう?なら…君の気持ちも僕に聞かせてください」
「そんなのずるいです!私だけ直接なんて…」
仕方ない人ですね…ではもう一度言ってあげます、と弁慶は望美を抱き寄せた。
望美は自然に弁慶の胸に顔を埋める体勢となった。
「僕は望美さんを愛してます…君は?」
望美は弁慶の胸に顔を埋めたまま、僅かに聞き取れるぐらいの声で囁いた。
…私も…私も弁慶さんがとても大切で…、…い…し……ます…。
最後の『愛してます』という言葉は途切れて殆ど聞き取れなかった。
それでも弁慶は、…今はこれで十分です、という意味を込めて望美の首筋に口付けを落とした。
首に付けられた赤い証に望美が気付くのは、教室に戻って朔に指摘されてからだった。
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