長編

□抱き締めて、囁いて
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九郎と一緒にアメリカへ行くか、それとも一人残るか。

大好きな恋人がいて、遠く離れてしまうことなんて普通願わないだろう。

恋人か家族、最終的な未来を一緒に歩むのは恋人で、その恋人が新たな家族となり続いていく。

でも、どちらも大切な存在であることはかわりなくて、比べられるものではない。

特に幼い頃に両親を亡くした望美にとって、家族は、九郎はとても大切な人である。

望美ほどの年頃になると、とっくに親離れはしていて、恋人といる方が楽しいと思うこともあるだろう。

けれど、望美はそうじゃない。

大切な人はみんな大切で、それにはどちらかが上なんてないのだ。

それは人にとったら偽善的と思うかもしれないし、人にとったら素晴らしいことだと褒め称えるかもしれない。

望美はとても人の感情に敏感で、不器用な人間だった。

だから余計に悩んで、一人で考え込んでしまうところがあった。

普段なら悩みは九郎に相談するのだが、これは自分で決めるしかないこと。

どちらもかけがえのない人でも、選ばなくてはならない…。














5章 二人の大切な人















夏休みが終わり、季節も秋に移った。

望美は悩んでいた、自分で決めるしかないことだから、だから余計にどうすればいいかわからない。

九郎に「弁慶にもちゃんと相談しろよ」と言われたが、なかなか言い出すことが出来なかった。

いつもデートの時に言おう、言おうと思っているが言い出せない。


「はぁ…」


望美は自分で気が付いていないうちに溜息を零していた。

そんな望美の様子に聡い弁慶が気が付かないはずがなかった。


「望美さん、僕との逢瀬はそんなに溜息が零れるほどつまらないですか?」

「えっ!?」


弁慶の言葉に望美はハッと我に返った。

今は弁慶とのデートの最中だった。

デートといっても、弁慶の部屋に来ているだけだが。


「ち、違います!ちょっと考え事をしていただけで…」

「考え事?僕と一緒にいることを忘れてしまうぐらい、深刻な悩みですか?」


確かに深刻ではある。

これからの生活が関わってくるわけで、それは九郎と弁慶とどうなるかにも関わる。

俯いて考え込んでしまった望美に弁慶は苦笑を零した。


「すみません、ちょっと意地悪言ってしまいました」

「…意地悪だったんですか」

「君が僕といるのに、僕以外のことに心を奪われているからですよ」


そう言いながら、弁慶は望美の頬に手を添えると軽くキスを落とした。

軽く触れるだけのキスが繰り返される。


「んっ…」


優しい包み込むようなキスを受けながら、望美の心は迷っていた。

弁慶のことは好きで、大好きで…、言葉に出すのは少し恥ずかしいけど…愛している。

けれど、望美は九郎のこともとても好きで、とても大好きだった。

弁慶を想う気持ちとはまた別の感情で愛している。

その気持ちは家族愛だが、望美にとって家族とはとても大切な存在だった。


「…望美さん」

「はい?」

「前に、『君に伝えなくてはいけないことがあるんです』って言ってましたよね?」

「あ、はい」

「そろそろ君に伝えようと思うので、聞いてください」


弁慶の真剣の顔に望美は思わず身体を強張らせた。

そんな望美に弁慶はクスっと笑って、そんなに緊張しなくていいですよと囁いた。


「実は…保健医、来年の三月で辞めることになりました」

「えぇ!?」


驚き声を上げる望美と、そんな思った通りの反応をする望美に笑みを浮かべる弁慶。


「保健医を辞めるって…どうしてですか!?」

「えぇ、転職しようと思いまして」

「転職って…」

「実は初めから保健医を長く続ける気はなかったんです」


望美を落ち着くように促すと、弁慶は淡々と話し出した。

弁慶の兄はとある某会社の社長。

そして、いずれはその息子であるヒノエが跡を継ぐ。

弁慶は昔から兄に、甥であるヒノエの補佐をしてほしいと言われていたらしい。

そして、ヒノエが高校を卒業したら大学には行かずに、兄も下で学ぶこととなったので弁慶もということだ。


「保健医だと君と近くにいれて良かったですけど、君も卒業でしょう?丁度いいですから」

「…そうですね」

「望美さん…?」


…弁慶さんは私のことを一番に考えてくれている。

とても、大切にしてくれて…愛してくれていると、伝わってくる…。

でも…私は…同じだけ弁慶さんに想いを返すことができてるのかな…?

弁慶さんの傍にずっといたい…抱き締めていてほしい。

そう思うのに……私は…選べない…。


「望美さん?どうしたんですか…?」

「……弁慶さん、私…弁慶さんのことちゃんと好きですから…」

「っ…本当にどうしたんですか…?」


そっと弁慶の手が望美の背に回り、優しく抱き締める。

望美は瞳を閉じ、弁慶の胸に身体を預けた。


「…私の気持ち…ちゃんと伝わってるか不安で…」


だから言いたくなったんです、と望美が呟くと弁慶は嬉しそうに、そして心配そうに微笑んだ。


「…ありがとう、ちゃんと伝わってますよ」


身体を抱き上げられると、ベットの上に寝かされた。

弁慶の顔が触れるぐらい真近に近づいて、お互いの額がぶつかった。

抱いてもいいですか?…と囁かれて、望美は頬を染め頷いた。


「愛しています…僕の愛しい人…」


そのまま二つの影が、一つになり沈んでいった…――。





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