長編

□抱き締めて、囁いて
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まだ出遭って間もないころ、弁慶さんは言った。

『僕は今まで女性を本当に好きになったことがないんです』…と。

この言葉はずっと私の頭の中に残っていて、付き合いだした頃の私は不安だった。

私を好きだと言ってくれたけど、それは本気なんだろうかと…。

でも、それを弁慶さんに聞くことはできなかった。

聞いてしまったら、まるで弁慶さんの気持ちを疑っているような気がしたから。

そんな不安な気持ちを抱えながら付き合っていたけど、いつしかそれも薄れていった。

元々優しい人だったけど、付き合いだしてからは本当に慈しむような優しさを感じた。

本当に私を愛してくれているんだということを感じた。

そして、初めて身体を重ねた時に弁慶さんは私に言ってくれた。

『君は僕が最初で最後の心から愛する女性です』…と。

そう言われた時、嬉しくて、愛しくて、涙が溢れた。

私は弁慶さんがこんなに好きだったんだと、思い知った。

ずっと離れたくない、抱き締めていてほしい、傍にいてほしい、本当にそう思ったんだよ…。



コンコン…


保健室のドアをノックする望美の手が密かに震えた。

ぎゅっと胸元で手を握り締め、大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かす。

中から、「はい、どうぞ入ってください」と弁慶の声が聞こえる。


「失礼します…」


静かにドアを開けると、椅子に座りながら愛飲しているコーヒーを飲んでいる彼がいた。

弁慶は望美の姿を認めると、望美に自分の方へ来るように手を招いた。


「いらっしゃい、望美さん」


微笑む弁慶とは裏腹に、望美の表情は固い。

それに気が付いた弁慶は首を傾げた。


「望美さん?どうかしましたか…」

「…あの、弁慶さん…」


言わなきゃいけない…決めたんだから、ちゃんと弁慶さんに話すって…。

いつまでも黙っていられない。

私は卒業も近づいてきている、残るなら就職活動もしなくてはいけない。


大きく息を吸い込み、意を決して、望美は弁慶を見据えた。


「…九郎さんが、アメリカへ行くんです」

「アメリカ?今までも何度かありましたね、また仕事ですか」

「はい…けど、今までとは少し…違うんです」


望美の言葉と顔が曇ったことに、弁慶は敏感に反応した。

手に持っていたコーヒーを机の上に置き、椅子から立つと望美に近づいて顔を近づける。

真近で見つめられ、望美は思わず視線を逸らしてしまった。

すると、眉を寄せた弁慶が望美の頬に手を伸ばし自分の方を向かせる。


「…どうして僕と目を合わせてくれないんですか、最近君の様子がおかしいのは気付いています」


聡い弁慶が気付いていないとは思っていなかった。

けれど、こう直に言われると顔が引きつってしまった。


「…話…最後まで聞いてください。九郎さんがアメリカへ行くのはいつもみたいに短期間じゃないんです…」

「え…?」

「短くて一年…実際はもっと…数年は帰って来れないって言っていました」

「数年…ですか…」

「…私に…ここに残るか…一緒にアメリカへ行くかって…」

「っ…!?」


その望美の言葉に突然、弁慶の顔色が変わった。

目を見開き、望美の肩をぐっと掴んだ。


「痛っ…、弁慶さんっ痛い…」


肩を強い力で掴まれたことにより痛みがはしり、望美は顔をしかめた。

しかし、今の弁慶にはそんな望美に気遣う余裕はなくなっていた。


「君はっ…九郎についてアメリカへ行くつもりなんですか!?」

「…まだ決めていません…だから、それを相談したくて…」

「相談って…僕が君を手放せるわけないでしょう!?」


やっと想いが通じて、この手に抱き締めることが叶ったのに、離れることなんてできない。

好きで、愛しくて、言葉でなんて語りつくせないほどに彼女が愛しい。

他の国になんて行ってしまったら、会えても年に数回ほどとなってしまうだろう。


「行かせません!!君を…アメリカへなんてっ…!」

「弁慶さん…」


キーンコーン

カーンコーン…


昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。

しかし、今の望美と弁慶の耳にはそんな音は届かなかった。


「でも…九郎さんを一人で何年もアメリカへ行かせてしまうことが心配なんです…」

「九郎は大人です!初めは慣れないかもしれませんが、ちゃんとやっていけます!」

「……けど、私は…」


言葉に詰まる望美に弁慶は苛立った。

どうしてそこまで九郎を気にかけるのか。

わかっている、彼女が九郎をとても大切に想っていることは。

けれど、自分のことも好きだと、愛していると言ってくれた。

九郎について行くということは、アメリカへ行くということは、自分と離ればなれになるということだ。


「行かないでください…!アメリカへなんてっ…!」

「弁慶さん…」


弁慶は望美を力一杯抱き締めた。

いつもならその背に腕を回す望美だが、どうしてもできなかった。

腕を回してしまったら、彼の言葉を受け入れることになってしまうから。

顔は見えなかったが、弁慶の身体が密かに震えているのを感じた。

望美はどうすることもできずに、ただ抱き締められていた…――。


***


しばらく抱き締められていて、やっと開放されると弁慶は悲しそうな顔をしていた。

それを見た時、望美の心はズキッと痛んだ。

行かないでほしいと言ってくれた彼に返事を返してやることができなかった。

傷つけてしまったのだと、言葉が出なかった。


「…ごめんなさい、弁慶さん…」


弁慶に背を向けると、保健室を勢いよく出て行った。

振り返る事なんてできない、何て言葉を口にすればいいのかわからなかった。

午後からの授業に出る気になんてとてもなれなくて、朔にメールで早退することを伝えた。

一人、家路に歩く足取りは重かった。

結局、答えはでなかった………いや、本当は初めから出ていたのかもしれない。






****






家に着くと、鞄から鍵を取り出し中へと入る。

靴を脱ぐと、いつもは揃える靴もそのままにしてふらりとした足取りでリビングへと行く。

九郎は仕事へ行っているために誰もいない、望美一人。

いつも九郎と二人でいると、この部屋中が温かく感じた。

リビングのテーブルの上には、九郎が作ってくれた晩御飯がラップをして置いてある。

そして横に、メモが置かれている。

『今夜は遅くなりそうだから先に寝ていてくれ。

ご飯はレンジで温めて食べろ。

九郎』

そう記されているメモを望美は握り締めると、ずるずると床に座り込んだ。


「…っ…ひくっ…」


涙が溢れた。

そう、答えは本当は初めから出ていたのだ。

大切なのはどちらも本当、比べられない。

けれど、幼い頃自分を救ってくれた、大切な人に何もできないままじゃ嫌だった。

今まで迷惑しかかけていない、そんなの嫌だ。

恋愛を楽しむのも、仕事を頑張るのも、すべて自分自身にケジメをつけてから。

九郎に恩返しをしてからじゃないと、自分が許せない。


「…ごめん…ごめんね、弁慶さん…」


望美は溢れる涙を腕で拭うと、鞄の中から携帯を取り出した。

そして、ある番号にリダイヤルをかける。


「…もしもし、九郎さん?うん、私…あのね、決めたよ」


…もっと自分が器用な人間なら良かったかもしれない。

家族と恋人をちゃんと割り切ることができたら、弁慶さんを傷つけることはなかったかもしれない。

でも…私は、こんな風にしか生きることができないの…。


「…九郎さんと一緒に…アメリカへ行くよ」




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