長編

□抱き締めて、囁いて
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ダンッ!!


大きな鈍い音が部屋中に響き渡った。

音の原因は弁慶が壁を思いっきり叩いたから。


「…望美…さん…」


それは何に対しての当てつけだったのだろう。

望美に対してか、それとも望美を繋ぎとめておくこともできない自分に対してか…。

弁慶は大きな溜息を吐くと、腰掛けていたベットから立ち上がった。

気を静めるためにシャワーでも浴びようと、風呂場へと行く。

ここに来ると思い出してしまう。

初めて望美を抱いた日のことを…情事の後、一緒に入った風呂のことを…。

あの時は本当に幸せだった。

そして、この幸せがずっと続いていくのだと思っていた。

幸せとはある日突然やって来て、突然通り過ぎてしまう儚いもの。

それが人の世だとわかっていても、今、自分が手にしている大切な愛しい人を手放すことなんてできない。


「…望美さん……愛しています…だから…」


だから…どうかアメリカへなんて行かないでください。

ずっと、ずっと、僕の傍にいてください…。






****






『…九郎さんと一緒に…アメリカへ行くよ』


そう望美から電話がかかってきたとき、九郎は冗談かと思った。

望美はてっきりここに残ると思っていた。

弁慶と離れることを、望美が自分から選ぶなんて思っていなかったから。


「…本当に…それでいいのか?」


望美から電話を受けた後、九郎は急いで仕事を終わらせて家に帰って来た。

そして今に至る。


「うん、もう決めたの」


リビングのテーブルの椅子に向かい合うように座る望美と九郎。

望美は真っ直ぐと九郎を見据えて揺るぎない決心を告げる。


「私は九郎さんとアメリカへ行くよ」

「わかってるのか?数年は帰って来れないんだぞ」

「うん」

「…弁慶とだって…なかなか会えなくなる」

「…うん」

「弁慶には相談したんだな?何て言っていたんだ」


ピクッと反応した望美を九郎は見逃さなかった。

あの弁慶のことだ、望美が遠くの国にいくと聞いて納得するわけがない。

弁慶が望美のことをどれほど想っているのかは、九郎も十分わかっていた。


「…弁慶さんには反対された」

「そうだろうな…あいつのことだからそうだと思っていた」

「でも、私は…自分の意思で九郎さんとアメリカへ行くって決めたの…だから曲げないよ」


九郎はうーんと考え込んだ。

望美は自分の意思で決めたと言っているが、弁慶と離れたくないに決まってる。

でも望美は一度決めたことを曲げるようなことはしない。

どうしたらいいものかと頭を抱えた。


「望美…もう一度、ちゃんと弁慶と話して来い」

「九郎さんっ、私は…」

「わかっている、俺は望美が決めてことを一番に優先する。けど…弁慶は納得してないんだろう?」


きっと何て説得しても弁慶が納得することはないだろうと九郎もわかっている。

けれど、このまま望美をアメリカへ連れてはいけない。

九郎にとって、弁慶は大事な友だ。

そして望美は大切な家族。

どっちの気持ちも組んでやりたかった。


「平日じゃお互い忙しいだろ、今度の週末の休みにでも出掛けてきたらどうだ?」


俯いている望美に九郎は励ますように声をかけてやった。


「…そんな泣きそうな顔はするな。俺も弁慶もお前の笑った顔が一番好きだ」

「九郎さん…」

「弁慶を誘い辛いなら俺からメールか電話をしておく」

「…ん、わかった。…ありがとう」



それから週末まで私は朝、弁慶さんに会いに保健室へは行かなかった。

正確には行けなかった…どんな顔をして会えばいいかわからなかったから。

毎日やり取りする電話やメールも一切無かった。

弁慶さんのほうからも何も無かった。

初めはそれで安心した…弁慶さんと少し離れることで心の整理をできたから。

けど…いつの間にか寂しさが心を渦巻いていた。

弁慶さんと会いたい。

弁慶さんと話したい。

弁慶さんに…触れてほしい…。

どんなに私が弁慶さんが好きかってことが改めてわかった。

でも…それでも…私は…アメリカへ行く気持ちを変えるつもりはなかった。

恋人より家族を取るとかそんなんじゃない。

そんな簡単に言葉で現せる決意じゃないんだよ…。

二人とも大切で…愛しくて…。

ただ、言えるのは…それだけ…。



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