長編

□抱き締めて、囁いて
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やって来た週末の休日。

望美と弁慶が出掛ける約束をしている日…のはずだった。

しかし、弁慶が急用で出掛けることが出来なくなってしまった。

どうやら兄から新しい職場での仕事のことで呼び出されたらしい。

それでも何とか時間を作るからと、望美は夕飯を弁慶宅で頂くこととなった。

やって来た望美を弁慶は優しい笑みを浮かべて出迎えた。

しかし、望美は気まずさのため俯いてしまった。


「望美さん?」


どうして彼はこんなに普通にできるんだろう。

こうして顔を合わすのも、話すのも数日振りだというのに。

これが大人の余裕なんだろうか。

望美は自分だけが気にしているようで少し悔しくなった。


「望美さん、どうかしました?さっ…中へ」


玄関に突っ立ったままの望美を部屋の中へと向かえる。

望美は言われるままに、部屋の中へと入った。

お邪魔します…と一言告げ、靴を脱ぎ、揃える。


「…ん?」


望美は前を歩く弁慶の足元がおかしいことに気付いた。


「弁慶さん…」

「はい?」

「スリッパが…左右が別々ですよ」


そう、弁慶が履いているスリッパが左右が別々のものなのだ。

これは…まるで漫画みたいだが、そうとう動揺しているということだろうか。

指摘されてようやく気が付いた弁慶は珍しく慌てていた。

うっかりしていました…と恥ずかしそうな顔をする彼に愛しさが募った。

決心が鈍りそうだ。

今日は弁慶に九郎と一緒について行くことを告げるために来たのに…。

大きく息を吸うと、首を軽く振った。

もう…決めたんだと…。





****






望美は弁慶のために腕を振るい料理を作った。

机の上には望美が作った、焼き魚、サラダ、味噌汁、漬物といった感じで料理が並べられている。

弁慶が洋食よりも和食が好きだと言ったので、なるべく期待に沿えるように頑張った。

本当ならもっと豪華な料理を作りたかったが、弁慶があまり料理をしないため食材がなかった。

いくら一人暮らしとはいえ、冷蔵庫を開けたときの食材の少なさには驚いてしまった。

当の弁慶は、一人暮らしの男の冷蔵庫の中なんてそんなもんですとあっさりしていた。

何とかあった食材で料理を作ったが、質素なものだ。

それでも、弁慶のためにと気持ちは込めた。


「…味、どうですか?お魚焦げていませんか?」


望美がじっと弁慶を見つめ尋ねると弁慶は微笑んだ。


「とてもおいしいですよ…ありがとう」


そう言われて、望美はホッと胸を撫で下ろす。

普段、九郎のために料理は作っている。

九郎はおいしいと言ってくれるが、恋人である弁慶に食べさすとなるとまた意味が違ってくる。

男といえば、料理が出来ない恋人よりは出来る方がいいに決まっている。

たとえ、そんなこと気にしないと言われても女の立場からすると気にしてしまうもの。


二人は晩御飯を食べ終えると、ベットに腰掛けてここ数日のことを話し合った。

こうして話しているとまるで何もなかったようだ。

しかし、確実にお互いアノ話は避けている。

さきに口を開いたのは弁慶だった。


「…望美さん、例のアメリカの話ですが」


ピクンと望美の肩が揺れた。


「僕もずっと考えていました…」


どうしたら君を僕の元へ引き止めることができるだろうと…。


「…これを」


すっと弁慶はズボンのポケットから小さな箱のようなものを取り出した。

それをそっと望美に渡した。


「弁慶さん、これっ…」


いくらそういうことに鈍い望美でも、この箱の中身が何なのかはすぐにわかった。


「…開けてください」


弁慶に告げられるまま、ゆっくりと箱を開ける。

すると、そこには思っていた通りのものがあった。

小さな宝石が付いている指輪。

光が微かに反射して、輝いて見える。


「…こんなもので君を縛れるとは思っていません…けど…僕の気持ちを形にしたかったんです」

「弁慶さん…」


望美はそっと手を取られると、、左手の薬指に指輪をはめられた。


「結婚しましょう…」


君が高校を卒業したら、式はいつだって構わない。

籍だけを入れて、夫婦となりましょう。


「…っ…」

「ずっと君の傍にいたい…僕と生きてください」


これからずっとずっと、お互いが年老いても…死ぬまで。

一緒にいたい、同じ未来を歩んでいきたい。

僕は、君以外の人なんて考えられない…。



弁慶は望美が頷いてくれるとそう信じていた。


しかし…


「………ごめんなさい」


どくんと、心臓が脈打った。

望美の発する言葉が信じられなくて身体が瞬時に強張った。


「っ…どうして…」

「私は…九郎さんと一緒にアメリカへ行きます」


どうして、僕を選んでくれない…。

どうして、君は僕と離れて平気なんですか…。

僕はこんなに君を愛しているのに、君は同じだけ僕を想ってくれないっ…。


「君は、僕より九郎が大切ということですか…」

「っ…!どうして、そんな風に言うんですか!?」

「僕のプロポーズを断ってまで九郎に着いて行くと言うんですから、間違っていないでしょう?」

「弁慶さんと九郎さんを比べられるわけないじゃないですか…!」

「じゃあ…どうしてですか!!!」


大声を上げた弁慶に望美は身体を強張らせた。


「僕と九郎が比べられないというなら、なぜ九郎を選ぶんですか!?」

「それは…」

「アメリカへ行っていつ戻ってこれるかわからないんですよ!?」


今までみたいに会う事だってできなくなる。

電話だって…時差も違えば、お互いの生活だって違う。

すれ違う一方だ…。


「…それでも、年に何回かは日本に帰って来ます!」

「耐えられない…そんな…。君とそんなに離れていたら気が狂いそうだ…!」


今すぐにでも結婚して僕の腕の中に閉じ込めてしまいたい。

それぐらいにこの気持ちは抑えきれない。

嫌になる…結局、恋人となっても僕の気持ちは君とは重ならない…。

もう…無理なのかもしれない…これ以上は…。


「…別れてください」

「ぇ…」

「もう、全部終わりにしましょう…君と僕の関係も…」






5章END

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