長編

□抱き締めて、囁いて【番外編】
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カタカタとパソコンのキーボードを叩く音が室内に響く。

全く手を休めることもなく、なにか一刻も早く仕事を終わらせようとしている気迫を感じる。

部屋にいるのは二人の青年。

一人は琥珀色の髪をした青年、もう一人は炎のような赤い髪をした青年、…弁慶とヒノエだ。

キーボードを叩いていた手を止めた弁慶は、「やっと終わったー…」と腕を伸ばした。

立ち上がり、荷物をまとめようとすると…


「弁慶、こっちの書類も頼む」


ヒノエから大量の書類を手渡された。

さすがの弁慶も固まった。


「……」

「おい、聞いてるのか?」

「…君は本当に扱き使ってくれますね。はぁ…望美さんに会いたい…」


いつも仕事が終わった後の携帯を見ると、メールが届いている。

望美からだ。

お仕事お疲れ様です、身体には気を付けてくださいね、と労わる言葉が並んでいる。

それを見たら、つい口元が緩んでしまう。

忙しくてろくに会うことも、電話もできなくて、弁慶も申し訳なく思っていた。

本当は仕事が終わった後にほんの少しでも会いたいと思う。

けど、時間が時間だ。

お互い明日の仕事があるし、望美も疲れているだろうと会えないでいるのだ。


「俺だって望美に会いたい気持ちは分かるけど、これはビジネスだ」

「…なんで君が望美さんに会いたいんですか」

「冗談だよ」

「君が言うと冗談に聞こえないんですけど…」


はぁ…と大きく脱力した後、渋々と弁慶は再びパソコンに向き直る。

弁慶だって、仕事にはちゃんと誇りをもっている。

だから、忙しくても働くのが嫌なわけではない。

けれど、最愛の恋人に会えないことはさすがに堪えた。


「…この書類をまとめ終わったら、帰らせてもらいますからね」


残業はほぼ毎日のことだ。

仕方ないとは思う。

まだまだ若いヒノエの補佐として、秘書を務めているのだから。

だから、少し文句は溢しながらもしっかりと働いている。


「あぁ、その書類がまとめ終わったら今日は帰っていい」

「ええ、当然そうさせてもらいます」


きりっと目を見開くと、弁慶は再びキーボードを叩き始めた。

その動作はまるで疲れを感じさせないぐらいの速さだった。

それでも決して正確さを失わないのが、弁慶らしい。

今の弁慶の頭にあるのはただ一つのことだけ。

望美に会いたい、声が聞きたい、その一身だった。







* * * *







「…十一時…」


仕事を終わらせ車で帰宅中の弁慶は、時計の針の刺す時間を見て溜息を零した。

時間は夜の十一時を回っていた。

いつもよりは少し早い帰宅にはなったが、こんな時間に望美に会いたいと言えなかった。

望美も仕事がある、いまごろゆっくりと休んでいる所だろうと。

最近こんなに忙しいのには分けがあった、

他の大企業との大きな取引をしている途中なのだ。

この取引を成功させるかさせないかで、大きな損得がでてしまう。

その為、弁慶もヒノエも朝から晩まで疲労困憊で働き通している。

この取引さえ終われば、この忙しさからは解放されて望美とも会える。


「…電話ぐらいなら、いいかな」


自宅に帰って来た弁慶は携帯のリダイヤルを押す。

もちろん、相手は望美だ。

望美が電話を出るその僅かな時間だって、煩わしいと感じてしまう。


早く、早く彼女の声が聞きたい。


『もしもし…弁慶さん…?』


ああ、望美さんの声だ…。

愛しい、愛しい、君の声がやっと…聞けた…。


「はい…お久しぶりです、望美さん…」

『…弁慶さん…はい、本当に久しぶりですね』

「すみません、いつも時間が取れなくて…」

『ううん…いいんです。お仕事忙しいんだもん…仕方ないことです』

「ふふ…僕に会えなくて寂しい、ですか?」


少しからかうつもりで、弁慶はそう言った。

望美が「もうっ!弁慶さんの馬鹿!」と頬を膨らませて可愛らしく怒るのだろうと、そう思っていた。

しかし、望美の反応は弁慶が予想していなかったものだった。


『っ…弁慶さん…は…寂しくっ…ないんですか!?いつもいつも寂しいと思っているのは私だけですか!私はっ…毎日、弁慶さんに会いたくて…会いたくて…寂しくてっ…!』

「の、望美さん…!違います…僕は!」

『もういいですっ!!弁慶さんの馬鹿!』

「待っ…望美さんっ!!」


ツー…ツー


部屋中に電話の切られた音が虚しく響いた。

すぐに電話のリダイヤルを押すが…「電源が入っていないため、掛かりません」とアナウンスが流れる。

弁慶はガックリと肩を落とした。

こんなつもりではなかった。

望美をほんの少しからかおうと思っただけ。

それに、弁慶が望美をからかうこと自体そんなに珍しいことでもない。

それでも、今の発言は駄目だったと後になって後悔が襲ってくる。

弁慶が望美に会えなくて寂しく思っていたように、望美も寂しがっていたのだ。


「…望美さん…」


弁慶は携帯をぐっと握り締めた。

この自分の失言に対する苛立ちをぶつけるかのように。

望美の家の方に電話をしようと考えたが、おそらく電話に出るのは九郎だろう。

九郎は望美の父親代わり、きっと望美には代わってくれないだろう。

いや、それ以前に望美をよくも傷つけたなと苦言を言われる可能性の方が高い。


「……」


携帯は繋がらない、家に電話しても代わってもらえない。

仕方ないと、弁慶はメールを送った。

後で、望美が見てくれることを祈って。

メールの内容は謝罪、そして望美に対する自分の気持ち。

好きだから、愛しいから、いろんな望美の一面が見たくなる。

もちろん、悲しい顔はさせたくない。

嬉しそうな笑顔や、少し拗ねた顔、恥ずかしがり真っ赤にさせた顔。

その全部が、愛しいのだ。



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