中編

□神に宿る赤い絵筆 上
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「名前ちゃん、またね!」
「うん、バイバイ」
 放課後、廊下であれやこれやいわゆる恋の話に花を咲かせていたのは私ではなく、手を振り別れたお友達。彼女はこれから、先ほど途切れることなく話していた人、男子校にいる好きな人のところに行くのだとか。辺りに薔薇を散らしながら上履を鳴らす彼女の後ろ姿は、まさに漫画で見かける恋する乙女。それを眺めて思います。夢中になれる人がいること、それは彼女をあんなにも引き立てて見せるものなのだと。
 羨ましくも、私はそこまで輝けないと一歩後ずさります。どちらかといえば、私は周りにある日常の煌めきをキャンバスに生き写す方が性に合っているのですから。足元に転がる小石でもなんでもいい、そこに価値を見出だすのは私の筆次第です。
 とはいうものの、私はその被写体に悩んでいました。何を描こうか、いまいちピンときません。いっそのこと、もう小さくなっている乙女の背中にしようか。いえいえ、そんな妥協のような考え方は筆にもモデルの彼女にも失礼極まりありません。
 ああ、さっきまでは彼女をもっと穏やかに見ていられたのに。気づけば溜め息をついて下を向く自分に、さらに息が溜まっていきます。もうひとつついてしまいましょうか。いいえ、無駄なことはやめなさい。小さな自然破壊など何も生みませんよと二酸化炭素を飲み込みます。とにもかくにも、部室に向かう私の背中は彼女とはほど遠いものなのでしょう。
 ふと、廊下へ差し込む窓の光に気を取られました。夕暮れ時、赤い夜の成り損ないが私も窓から見えるサッカーグラウンドや野球場もすべて染め上げて、暗闇に食べられるのをただ待つ時間。
 限りあるものにはどうも心惹かれてしまうのが人間というものです。私は足を止めて一所懸命に夕日が輝く様を見ていました。今だけはお前が主役だよと、しがない観客のひとりに傾ける耳もないでしょうに、私は感嘆を抑えきれずにいたのです。
 すると、そこに水を注す声が聞こえてきました。なんでしょうか、よもやこの場に他人は立てまいと思っていた矢先のことでしたから、私は痛み入りながらもその声へと視線を逸らしてしまいました。
 人のことは言えませんが、赤く染まった男の人がいます。紛れもなく夕に焼かれたその方は、長い髪を風に遊ばせて立っていました。しかし、髪で縁取られた身体は女性にしては隆々としていて、私のような運動に無縁な方ではないのだと身に纏うユニフォームが教えてくれます。
 赤い輝きを放っている彼は、やがて両腕を突き上げて片足を手繰り寄せます。そして、縮こまった彼が一瞬だけ時を止めた、そう思った時には、しゃがみこむ捕手へとボールが瞬きすら許されない速さで渡りました。私の目を引きつけた時と同じように低く唸りをあげながら。
 素人でもわかります。人間離れした投球でした。夕日に比べれば小さな身体の彼はその夕日すら背景として役を与え、なんでもないことをするように主役に成り上がったのです。
 その真っ赤に染められた幻想的な舞台と言えば、どんなに凄腕の写真家でも撮れない一枚の写真でした。聖母の奥ゆかしさを備えたグラウンドに、ただ全身漲るままにぶつかる男の人。背反するはずのふたつが混ざりあって、空前の化学反応を起こしているとでもいうのでしょうか。とにもかくにも、私ですら何を見ているのか理解できないほどに、美しい景色でした。
 足が地に縫い付けられた私は、そこで足踏みをすることすらままなりません。もちろん、歩くことなんて言うに及びませんね。ただ、彼を見て魅了されていました。髪一本一本から足の爪先まで骨抜きにされていました。
 それで済むのなら、どれだけよかったのでしょう。私はこの尊大な姿を描きたいと望んでしまったのです。息を呑んで、目を見開いて、それで終わらなかったのです。絵が写真を越えればいいじゃない。絵なら、不可能なことなんてないのだから。相棒の筆を握って、どんなものでも描ける。
 みっともなく希望に満ち溢れた私は目の色を変えました。目に焼き付けようと思ったのです。夕日の色、彼の背丈、髪、グラウンド。そうだ、土の匂いもだ。思い立ってからは、足を動かすことなど赤子の首を捻るようなもの。涎を垂らしてボンヤリ見ている自分自身を胸の中で殺して、窓を思いきり開け放ちました。ああ、土の匂いがする。夕焼け時よりも遥かに短い秒針を止めなきゃ、と無茶なことを考えては瞬きを忘れた私がいたのです。

 私が心すべて惹かれてから、授業後に部室へ駆け足を止められない日々が続きました。あの夢はまだ覚めません。いいえ、この胸に、頭に、あの日が残っている限り、消えることはないのでしょう。
 さあ、今日も私の生身で浴びたあの感覚をすべて手に、筆に注ぎ込もう。机で眠っているところを叩き起こされた教科書たちは鞄の中で不機嫌そうにしています。それを無視した私はここ最近の楽しみ、部室へと駆けて行くことを決め込みました。廊下をすり抜けて。
 しかし、私の足はそこで潔く立ち止まりました。無理もありません。どうしたもこうしたも、その私がなにもかも奪われたあの人がいたのですから。以前の夕焼けと重なる影がこびり付いている私の頭に、制服を纏う彼の姿は異様にコミカルに見えました。失礼でしょうか、しかし仕方がありません。
 表情の作り方も忘れてボンヤリと彼を眺めます。その間抜け面といえばここに綴りきれません。ただ、それだけならばよかったのですが、彼は私と目を合わせてしまったというのです。
 途端に、固まっていた私がさらに石化します。幸いにも、彼は私にどう思うこともなくすぐに目を逸らしてくれたので、私は人知れず融解し、彼の姿を目で追いました。相変わらず長い髪に、私は胸の奥底が叩かれるような心地がします。夕日にすら負けず輝きを放ったこの髪に、そして投球に、私は胸を打たれたのですから。野球の言葉で言えば、さしずめホームランというやつでしょうか。運動にはどの方向にも不案内なもので、自信はありません。それでも、彼に対する美しさ、人間とは思えぬ魅力には絶対的な自信がありました。奇妙な方向へ伸びていますね。
 しかし、まさかその自信が彼の肩を叩くなどと思うでしょうか。少なくとも私は思いません。浅はかな自分かが撒いた種は限りなく無鉄砲で、熱烈で。たかが視線一つで再び彼の目をこちらに仕向けてしまったのです。ああ、どうしましょう。制服姿の彼が眉を顰めます。おそらく、おかしな者だと思われたに違いありません。
「何か用かな」
「え、えっと……」
 彼は微笑んではいますが、その顔は見事に腹の裏を真っ黒に透かしていました。何か用か、すなわち用がないなら立ち去れとでも言いたいのでしょう。私はオロオロとその場で頭を前後左右に揺らします。考えろ。なにか、訝しくはない言葉を。ああだこうだと悩み悩ませ、ようやく口から出てきたのは出任せもいいところ。
「あの、あなたの美しさを描きたいなと……!」
 散々頭で話し合った結果がこれですか。私の首脳陣はどうも使えません、会議すらまともにできないのですから。これでは、もう。完成を十とするなら、一にも届かないちっぽけな描き途中のキャンバスが私から消えていくのを感じました。もっと口の回る方なら上手なことが言えたでしょうに。
 しかし、彼は嘲笑いも軽蔑も唾を吐くも、私が次に来るだろうと涙ながらに寄せ集めたカードをすべて破り捨てたのです。なんと、長い髪をどこかの女優さんよろしく掻きあげ、貼り付けられた作り笑いを剥がして、本物の微笑みを見せつけてきたというの。首の皮一枚で繋がったボロボロのキャンバスは、まだなんとか修正ができそうでした。
「フフ、僕の美しさに気づくとは……キミはなかなか見る目があるね」
「え……あ、はい! あなたのことを一目見た時から描きたいと願っておりました!」
 ここまで来たのなら。私は口から吐き出す方便に丸投げを決めました。
「そうだろう、そうだろう」
「どうしてこんなに美しいのかと疑問に思うくらいです」
「そうか、キミは美術部の人間なのかい?」
「はい!」
「なるほど……通りで。人とは違う目をしていると思ったんだ」
「そうでしょうか」
「キミなら僕のような人間もさぞかし姿そのままに描いてくれるのだろうね。期待しているよ」
「き、期待……はいっ、頑張ります!」
 なんと。某有名画家のような筆も握れない口ですが、彼を持ち上げることくらいはできたようでした。初めてこの上手ではない口が役に立った気がして、私はこれを無駄にするまいと息巻くのです。
 片手を振らせながら私の横を通り過ぎた彼、その後ろ姿は枯れ木交じりの廊下に赤いカーペットを敷かんとしていました。やはり、私の目は間違っていません。彼は本当に美しい方でした。−−彼に見惚れているのは、この伸びる廊下のうちでも私だけのようでしたが。
 しかし、モデルさんの彼に判を押されてしまったのなら、ここで彼を眺めることに感けていてはいけませんね。一刻も早く絵を完成させなくては。私は部室へと足高々に闊歩していったのです。足元にカーペットはありませんが、私は非常に御機嫌麗しいので許しましょう。



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