中編

□神に宿る赤い絵筆 中
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 彼の絵もずいぶんと色を纏っていきました。絵筆やブラシがカメラのレンズを越えたような気さえします。彼は紫色の髪に夕日を背負っていて、まるでどこかの映画のワンシーンのようでした。我ながらいい出来だ、筆を握りしめて頷く私は込み上げる達成感、そして自分の子供じみた愛着に胸が震えるのです。
「やあ、名字さん」
「神高くん」
 そしてこの絵と同じ人物、神高龍くんも私の筆を後押ししてくれた人。被写体として始まった彼への慕情は今や友情に姿を変えて、あるべき場所に収まっています。時々、作品を見に来てくれる彼は、私にとって最高の起爆剤。本人が心待ちにしているのなら、これほど嬉しいことはないからです。いやはや、絵描き冥利に尽きます。
 しかし、今日の彼は私の絵を覗き込むと手を叩きはしませんでした。いつもは感嘆を漏らして下さるというのに、珍しいこともあるものです。どうしたのでしょうか。私はキャンバスの前に腰を下ろしたまま神高くんを見上げます。彼はなんとも複雑な表情をしていました。普段、能天気に動く眉間には皺を寄せ、鋭いながらも愛らしさを備えた瞳は不服を訴えつつ白けています。ああ、色は赤いですが。
 その顔だけ見ればこの絵と同一人物であるか、疑念を抱いてしまうかもしれませんが、それは作者ながら私もどうこうできる話ではありません。だって、私ですら初めて見るいわば知らぬ筆の彼なのですから。私は一斉に冷や汗を垂らしました。
「あの、なにか、お気に障る点がありましたか……?」声まで震えてしまいます。
「……いや。相変わらず綺麗だな、キミの絵は。僕ではないようだよ」
「そんな、神高くんはこのくらい美しい方です。私の絵でそれを表現しきれるか……」
「なるほどね、だからか」神高くんはしゃがみこみました。
「名字さん」
「はい」赤い瞳と交わります。
「キミの絵は美しい、ただ、美しい他ないんだ」
「……はあ」
「わかっていない、そんな顔だね」
「……すみません」
「僕は美しいだけではない、そう言いたいんだよ。僕を作る素材はそれ以外にもたくさんある」
「はい」
「そうだな」神高くんは顎に手を置きました。
「次の試合、名字さんも来るんだ」
「えっ、試合、ですか? 野球の?」私は椅子から転げ落ちそうになりました。
「そう。野球の試合さ」
「わ、私、野球の試合なんて見たことないのですが……えっと、ルールもわからないですし」
「……別に野球のことを詳しくなってほしいわけじゃない。とにかく来なよ。いいね」
 彼は言うだけ言うと私から離れていきます。そんな、待って。私は野球の試合を見たところでなにもわからないと思うのです。それはつまり、彼の期待をフイにしてしまう未来が目に見えているということ。
「あ、あの!」
 私は立ち上がりました。彼はすでに部室の扉に手をかけています。
「なんだい?」
「えっと、な、なにを見ればいいのですか……?」
「……試合を見てそれがわからないのであれば、キミは僕を描く権利もないね」
「へ……」
「それじゃあ」
 初めて見た頃と変わらない綺麗な笑顔を携えて、彼は手を振りました。私といえば石化もいいところ、これまでの時間を一気に巻き戻してこれが化石といわずしてなんというのでしょう。長い長い時間を振り返っても寒気がするのです。
 どうしよう、閉まった美術室の扉に救いの手を求めたところで隣に掛けられたモナ・リザさんが微笑むだけです。手は重ねられ、差し伸べてくれる気配もありません。彼女に頼ることは止めましょう。だからといって神々しい彼もキャンバスの向こう側で端麗に佇むだけ。あなたのせいでこうなったというのに、無責任甚だしいというものですわね。
 私は自分の手を見つめました。見つめたところで、なにも出て来やしませんね。私にはこれしかないのです。野球なんてボールを握ったことすらありません。バットは太い方を持つのでしょうか。−−計り知れないほど野球に不案内というわけです。握り拳を振り解こうが再度噛みしめようが、なにも生まれては来ないのです。

 まさしく猫に小判、馬の耳に念仏、名字名前に野球。神高くんの無意味を極めた誘いに、私はこれまたまんまと足を引きずられているというわけです。
 できることならこの場に立ちたくはありませんでした。燦々と輝いた太陽が私に場違いだと熱い唾を吐きます。私はそれを麦わら帽子で防ぎながら生まれたての子鹿のような足で突っ立っているのです。初めて足を踏み入れた球場は明瞭で、眩しいほどに快晴でした。一瞬だけ目を閉じてしまったのは仕方のないことだと思いますよ。沸き上がる歓声、奇声。感情の昂りを象徴する何層にも連なった声色の真ん中で迷子になる私は、ただただ見たことのない怪物でも目にしたのか放心状態に落とされました。
 あちらで声、こちらで声、さらには向こう側で声。私の瞳やら首やらはその四方八方さらには十六方に散らばり、忙しなく一進一退を繰り返しています。いえ、もともとどこに行きましょうなんて目的地はないのです。偉そうなことを言いましたね、私はこの熱い荒波に漂流しているイカダの船長なのです。なにか指標になるものでもあればいいのですが。羅針盤なんて高価なものは最初からございません。
 そう、万事尽く休していた時でした。野太い声で彼の名が呼ばれたのです。神高、と。右も左もわからぬ私が食いつくのはさも当然のお話。そちらには、星の光のようなコンパスを与えてくださったおじさまがいらっしゃいました。黄金色の麦酒を片手に、無精髭とボサボサの頭でしたが、私には彼が七福神の一角にでも見えます。その神聖なあなたが見つめる先には、さも私めが目にするもものものしい光景が広がっているに違いありません。恐れ戦きながらも私は福の視線を追いました。
 すると、いた。いたのです。私があれほどまでに心酔して描き続けてきた、神高くんが。グラウンドの中央であの赤い瞳を爛々に燃やして立っていました。初めて出会ったあの日、彼は確かに赤い夕日を受けて美しく輝いていたはず。しかし、今はどうでしょう。赤く染まっているのは瞳しかありませんが、彼の身体はたしかに血色を滾らせていたのです。空から降り注ぐ日差しは私の時には唾を吐いたくせに、彼へはさらなる熱帯をと陽炎も煮やしてしまいます。そのせいか、歪みなくはっきりと目に映るその姿に私は息を呑みました。美しい? いいえ、美しくはありません。泥だらけです。では、どうして私はこんなにも彼を眺めている? −−なぜでしょうか。わかりません。わかりませんが、私の心臓の鼓動は彼を描いている時よりも早く早く駆け出していて、立ち止まる気配もないのです。理由なら、この身体を切り開いていつもより赤く流れる血潮に聞いてくださいな。
 神高くん、いいえ、神高選手が顔を上げました。一粒の観客である私など虫眼鏡を重ねても見えませんので、私は一方的に彼を眺めるのです。私の方は双眼鏡など必要ありません。度の入っていないふたつの目玉がありますから。振りかぶって、白い太陽に照らされメラメラと揺れるマウンドを彼のスパイク針が突き刺します。野球のことはわかりかねますが、彼が持てる力すべてを指先に集め、いいえ、握ったボールに集めていること、そして、その等身大の彼が私の身体の芯を震わせたことはわかりました。画家のとしての生命線と呼ぶにはちっぽけな芯ですが、それでも私の一番大切な部分。確かにそこがかつてない高鳴りを見せたのです。しなやかに振幅を繰り返す姿は折れてしまうのではないかと不安になりますが、滅相もありません。彼という存在を耽美な夕日で飾った芸術ではなく、泥塗りの雄々しく能のない動物の様で厚く色散られてしまったのですから、私の本能はあらまあと漏らす間も無く彼色に染まってしまうのです。折れるなど彼が許さないことでしょう。
 一種の支配でしょうか、征服でしょうか。ええい、この際どちらでも構いません。自由の利かない私に残されたのは、ただひとつの喜びです。そう、これだ! 美しいと思っていた彼は違う人物だったのです。これだ、これが本物の神高龍さんなんだ! 私は生まれて初めて憧れの人に出会えたのだと腹の底から快哉が飛び跳ね、浮き足立ち耐えきれずして跳ねました。小学生のように。
 この私や観客すら真っ二つにしてしまう元気な水切りをどう表現しましょうか。そうだ、絵にすればいい。神高くんを神高選手に、いいえ、神高龍にすればいいのです。夕日が灼熱に染まるなど何時間かかることか。長い長い夜を跨いで地球の裏側を散歩する太陽を待たねばなりませんが、キャンバスの上では敵などいません。焼けた朱色を破れば、また焼けた赤色が顔を出すのですから。なんと素晴しいアイディアなのでしょう。今日の私は一段と冴えていると自画自賛を贈り、私は彼を凝視します。つまるところ、この瞬間を忘れたくはないのです。美しさなど欠片も兼ね添えていない彼を、正反対の向こう側で描き出したい。これまでの絵よりもずっと美しく。
 彼の指を離れたボールがしゃがみ込む捕手の手に渡りました。いつか見た捕手の彼です。神高選手も彼も、あの日のような夕に縁取られた姿ではありません。あの背景を背景とした故に彼らは煌めいていた、そう思っていたのに違ったんだ。彼らは綺麗だ。目の前が滲んで、いよいよ感情の瓶がいっぱいになってしまったのです。零れ出したのは何か、私は熱さの餌食となった手で拭い去りました。生温い涙です。なにをしているの、今はこの場面を目に焼きつけなくてはならないのよ! そう瞳に訴えかけたところで、木の小槌が静かに棄却を告げます。私の涙は止まることなく、太陽に蒸発させられることを今か今かと待っていたのです。



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