中編

□void eternity 1
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 あるよく晴れた日のこと。世間様にはなんの記念日も名称もない365日の一端のさらに端くれを担うマンデー。私は、肩掛け鞄にずり下げられそうになりながら真新しい校舎に足を踏み入れた。転校生の私は異国の民だと陰口を叩かれ、いつしか本当に拳で叩かれる未来を想像しておどおどおどろしくクラスルームに入ったこともよく覚えている。薄茶毛を巻かせた茶目っ気溢れる先生に連れられ、ホワイトボードに並ぶのは私の名前。もちろん、名字名前だなんて鎖国的な字は書かれない。ナマエとグローバルに、そして簡素に書かれた黒文字を私は眺めていた。母国ではブラックボードゆえに白字だったなあと思い出す。私へ好奇の眼差しを送る、同い年らしい大人びた彼ら。やはり遠く離れたそこが私の生まれ育った地であるけれど、よくぞここまで来たものだと我ながら綱渡り程度しか残っていなかった退路を断ち切った。はっきりといってしまえば、不安であった。留学だなんて聞こえはいいけれど、勉強なんてする余裕は心に作れていない。いっぱいいっぱいに脈打つ心臓をこれ以上酷使してやらないでくれ。そう叫んでやりたい口に蓋をして、大人の期待を背負ってこんな地まで来てしまった。
 先生が私の背中を撫でた。机上で三年間学習してきた英語が三年間冷蔵庫で忘れ去られた納豆のようだ。生命力のある英語で「ナマエ、どうぞ」と囁かれ、私はその腐った発酵食品をクラス中にばらまくこととなった。
「ナマエです。日本から来ました。仲良くしてください」
 拙い赤子そのもののエイゴを笑われるものかと思えば、クラスメイトたちは私に「ジャパン!?」と目を輝かせた。彼らにとっちゃ聞き苦しいコトバよりも世にも奇妙な島国の方が興味を引くらしい。中には座席から立ち上がるほど。あんな小さな国のどこがいいのかは疑問だけれど、大嫌いな数学で満点を取ったような嬉しい誤算だ。皆とは違う黒髪で顔を隠しながら、リンゴのような頬で頷くと彼らが温かい掌で叩いたのは私の肩だった。そして言ったの。「ウェルカム! 歓迎するよ、ナマエ!」と。私がこの瞬間まで抱え続けていた不安や悩みの種は、今日から共に学ぶ仲間が一つ残らず放り投げてくれた。きっと、日本まで届いただろう。あちらに帰るまで、もうこんな辛気臭いことで頭を抱えることもない。こうして、私はアメリカンスクールライフを始めることとなったの。
 クラスメイトは日本人よりずっと個性的なのだから、およそ三日程度で全員の顔を覚えてしまった。名前ももう半分以上は覚えている。まだ頭の取りこぼしがある残りもニックネームくらいはわかる。それに、特筆すべきは友達もたくさんできたこと。ホームシックとやらは架空の話のようで、私は日々のハイスクールデイズを心待ちにしていた。朝がこんなにも輝いているのは、ひとえに学校のおかげだ。それに一役どころか大役を買っている人がいる。一際目を引く男の子、そう、金髪の彼だ。おおらかで優しい、それが彼の印象だった。私が転校して来た時も誰にでも気さくで非の打ち所が無い彼のことだ。容姿端麗の時点で女の子を釘付けにすることは間違いないだろうと思っていた。事実、その仮説は障壁もなく流れに棹をさしながら証明された。つまるところ、アルヴィン・ロックハートはモテた。女子のみならず、男子からも人望がある。だから、彼が人々の輪の中にいることなど当然のことのようで、僻んだりする者は誰一人いなかった。アルヴィンが人気者になることへは疑問すら生じないのだ。そして例外なく、私も彼を好いていた。
「やあ、ナマエ」
「アルヴィン、おはよう」
「もうここにはなれたか?」
「おかげさまで。みんな優しい人だから」
 転校生という異色の肩書きのおかげで、アルヴィンは私へ頻繁に声をかけてくれる。もちろん、私が彼に抱くものは憧れなんてキラキラしているだけの代物じゃない。乙女色の淡さも孕んでいて、それはそれは見事な輝きを放っていた。日本でも手に入れられなかった恋心とやらを、アメリカに来て早々手にしたの。留学にて得たことが知識ではなく恋心だなんておかしな話だけれど、実際のことなのだから。アルヴィンは私に微笑みかけると「そいつはよかった」と男の子らしい眉を下げる。クールかと思えば、それは表情だけ。本物の彼は会って間もない私にすら優しい顔を見せてくれるほどなの。
 そんな彼と友達、日本ではお目にかかれないオープンな校風、その全てに抱かれた私は気持ちを固結びで挑んだ反動かなにか、呆気なく緩んだ隙に宿題を学校に置き忘れるという失態を犯した。しっかりしなさいと学校から散らばる人並みにひとり逆らう日本人を叱責すれば、反省もせずに自身の行いに拍手することとなる。なぜかって? だって、駆け戻ったクラスルームにいたのだもの。−−アルヴィンが。
「やあ、どうしたんだ?」
「アルヴィンこそ」
「オレはもう帰ろうと思っていたところだよ。ナマエは?」アルヴィンは机の上にあるカバンを手に取った。
「私は忘れ物しちゃって」
「そうか。それなら、一緒に帰るぞ」
 それで終わったならよかった。しかし、アルヴィンは私の手まで取ろうとしたのだ。
「あ、アルヴィン!?」
「いいじゃないか。ダメな理由なんてないだろ?」
「だ、ダメではないけど……!」
「よし、なら決定だな」
 アメリカでは当たり前のように行われるスキンランゲージ。しかし、根は日本人の私としては時々、いえ、彼ならいつでも平静を乱す要因となってしまう。それに気づかないアルヴィンは、やっぱりニッカリとした晴れやかな笑顔で私の手を取ったのです。
 席を立てば、彼は長めの金髪を翻して走り出す。開けっぱなしのドアもおかまいなしで、私だけがああ閉めなくてはと振り返った。それでも繋がれた手に引き寄せられて適わない。だって、そのアルヴィンと私の重なる場所だけが熱くて、世界にたったアルヴィンと私しかいないような錯覚に陥ってしまうのだから。スクールはもう終わっている。足音は私と彼のものしか聞こえないし、人影もふたりぼっちなの。
 彼は楽しそうに微笑んで廊下を駆けていく。日本では先生が飛び出してきそうだけれど、ここには今や先生すら入れないのかもしれない。ほら、アルヴィンが私を見つめる。
「ナマエ」
「なに?」なにやら、熱っぽい視線だと思った。
「キミは……なんていうんだろうな。キュートだよ」
「……ありがとう」それに当てられ、わざとらしく俯く。
「いや、どうかな。違うんだ。ただキュートなだけじゃない。ハハ、言いたいことが上手く伝わらないな」
 アルヴィンはやっぱり私を見ていた。燃えるような青い瞳に私が映っていて、彼の瞳から見た景色を垣間見たような気がした。きっと、隣にいる女の子は見ていられるものを。
 アルヴィンはシューズボックスを通り過ぎる。いわゆる昇降口を横切ったのだ。一緒に帰ろうだなんてどこから出てきた方便なのでしょう。私はまんまと騙されたと思った。そして、たったひとつしかない出口は追いかけてくることもなく、私たちから離れて行く。それを後ろ髪引かれる思いなど欠片もなく、頭の片隅から消した。アルヴィンの握る手の力が強くなった。

「ナマエ」
 そう呼ばれたのは、どこかもわからない教室でのことだった。ふたりだけのクラスルームで、ようやく私の手を離したアルヴィン。彼は消えた手の温もりの代わりだと真っ直ぐな瞳を私にくれた。外国人特有の色っぽい視線は、アメリカ慣れなどしていない私にとってお姫様気分を錯覚させる。もう、なにを自惚れているのでしょう。しっかりしなさい。必死に言い聞かせながらも、私はこの甘すぎる立場に酔っていた。ヒロイン顔負けのこの状態、私はいわば頬を染めた乙女の顔とやらをしていたに違いないの。
 さらには、アルヴィンがそれを優しく微笑んだというのだ。こんなにも完璧な俳優がいるものかと目眩がしてしまいそうになる。
「真剣に聞いてほしいんだ」
「なに、アルヴィン」
「オレ……」
 そして、約束された台本のごとくだ。私は彼から想いを打ち明けられた。−−なんて、よく言ったものだ。まさかさかさの出来事だった。だって、私も恋をしていた。彼も恋をしていた。そのベクトルが向かい合っていただなんて。あの真剣な青に「君が好きだ、ナマエ」と言われて胸を鳴らさない私はいない。同じ表情を見せてこくりと頷き、私と彼は晴れて恋人同士となったわけだ。
 私は初日に難を逃れたしわ寄せがここに来て埋められるものだと怯えていた。今度こそ拳で叩かれると信じていた。だって、突如現れた顔の平たい民族がクラスの人気者を攫って高笑いしているのだから。いや、現実になってしまえばクラスルームの隅で小さくなって震えることしかできないのだから、夢であれとも信じていましたよ。
 しかし、ここまでのことがあってもいいのでしょうか。「アルヴィンってクールよね!」と言っていたあの子もこの子も口を揃えて祝福してくれたのだ。私たちはクラス公認のカップルとやらになり、その日を境にアルヴィンは私への目の色を変えた。いわば、恋人、女として私を眺めてくれるようになった。大好きなアルヴィンなのだから幸せだった。
 だから、ね。数行前のように思っていたのよ。ここまでのことがあってもいいのかって。

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