中編

□void eternity 2
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「ナマエ」
「なあに、アルヴィン」
「最近はなかなか会えていないな。今日あたりどこかに行こうか」
「無理しなくてもいいよ」
「無理なものか。オレだってキミに会いたいんだ」
「アルヴィン……」
「よし、決めた。アクアリウムにでも行こう」
 そして、彼は真面目だった。私との時間を求めて、自分から手を差し出してくれた。触れ合うたびに思う。この瞬間、ここだけは彼がたったひとりのダーリンであると。こんな考えに至るほど彼との関係も足の踏み場が見えて来たころだった。言うまでもないけれど、幼虫が蛹に変態し、一代分すべての時をかけて成虫にまで変化を遂げたように、以前の私も赤子同然。まだ幼いアジア人の小心を抱え、せっかく意中の人と繋がれた恋人の証も、周りに知人の影を見つければ逃げ出そうとしていた私の手。その度に彼はそれを許さんとばかりに強く握ってきて、私の退路を直ぐ様塞いできた。その甲斐あってか、今では随分図太くなったもので、一時だけ驚き慄くのみにまで成長していた。
 アルヴィンは私の手を引いて、知らない世界に連れて行ってくれる。日本の水族館ならまだしも、アメリカのアクアリウムは私にとって未知の場所。立派になったのは一端だけで、まだまだアメリカのガールフレンドとしては未熟者だ。フツツカモノ、なんて言葉はアルヴィンに通じないかもしれません。
 彼に腕を引かれてやってきたマリンブルーでは、ボーイフレンドらしく「ナマエはここで待っていてくれ」と言われてしまう。きっとチケットを取ってくるのでしょう。勇ましさに水を差すわけにもいかず、黙って頷いたのが今の図だ。彼を待ち人として立ち尽くしていれば、「ワオ、ジャパニーズガールがいるね」「あら本当。プリティだわ」なんて聞こえてくる。珍しさに私を見てはクスクス笑う人たち。日本では心が掻き乱される要因になるような卑屈な行為でも、ここでは心温まるだけであった。もうそろそろ小慣れたものかもしれないけれど、私にとっては来る人去る人横切る人、誰もが母国では目を引くだろう美男美女に見える。アクアリウムが彼ら彼女らを光の水面で彩るから、どこか幻想的な美しさと水遊びを終えた無邪気な胸騒ぎが混ざり合って、私の心のドアを叩く。もうすぐ大好きなあの人と一緒に出かけられるんだよ。肩を叩かれたその時が合図でした。
 アルヴィンと眺めた海は驚くほど澄んでいて、たくさんの生きとし生けるものが水という母に抱かれ、不自由なく空を舞っていた。水族館なのだからと言われてしまえばそれまでだけれど、それ以上に大切な人と見る風景の鮮明さを知って私は不意に泣きたくなってしまった。感極まるなんて短い言葉では表現しきれないアルヴィンへの恋心が、私を満たして、満たして、満たし切って。このまま永遠が青く深く続いていることを知ったのだから。
 アルヴィンは私の手を捕まえて離すことはなかった。あちらに行けば「ナマエが食べられてしまうほど大きいな」とサメを指差し、そちらに行けば「ナマエの手とそっくりだ」とヒトデを眺めた。繋がれた私の右手と彼の左手だけは、いつ何時も互いを惹きあったまま。

「キミを連れて行きたいところがあるんだ」
 アクアリウムでこれほどとないデートを楽しんでから、頭に期待の篭ったクエスチョンマークを浮かべる私。アルヴィンは、そんな私を爽やかに笑ってから行き先のいの字も告げずに足を進めた。アメリカ人にしては色の薄い腕が、この土地にしては珍しい黄色がかった私を引いていった。
 彼の楽しげな背中は私の期待値を知らず知らずのうちに膨らませていく。もう、そんなに大きくなってしまっていいの? 後で萎んでも知らないわよ? 現実主義な私がそう懸念するけれど、圧倒的に彼への想いが優勢で。顔にまで出てしまうほど、気持ちは強くなっていたらしいの。私、楽しそうな顔をしている。そう気づいたのは、彼に腕を任せている自分とショーウィンドウ越しに目が合った時だった。まるで恋する乙女が夕暮れの街、どこかの島国のようなカラスは鳴かないけれど、緑の木々が赤く燃え始める時間に情緒に溢れた顔をしていたから。その丸っこい頬まで赤らめた私は、さぞかし幸せそうに微笑んでいた。
 アルヴィンは人並みを抜け出し、流れに逆らい走った。アクアリウムでは小魚の数ほどいた人の姿。徐々に消えていき、やがて遠巻きに散っていった。ようやく彼が振り返ったのは、アクアリウムにも再現し尽くせない本物が広がる海岸通りだった。サンタモニカビーチやラ・ホヤ・コーブには並べないけれど、夕焼けが鮮やかで綺麗な場所、ロマンスを期待してしまう、そんな場所だった。ここから遥か先、海の向こうには私の故郷があるのでしょうか。なぜか、そんなことは微塵にも考えられなかった。
 私とアルヴィン、もう一組のカップル。それしかいない寂しげなビーチ。しかし、彼は困ったように眉を下げた。
「ハハ、まさか人がいるなんてな」
 まさか、なんてこちらのセリフだ。まさかこれ以上の寂やかな場を求めていたというのでしょうか。アジア人には刺激が強すぎるよ、アルヴィン。彼の思惑に目眩がした。
 彼の計算外であったカップルは仲睦まじく寄り添いあっていた。私たちもあんな風に見えるのかな、アルヴィンとなら、そうであれと望む私がいる。
「こんなにも素敵な場所があったなんて」
「ナマエに見せてやりたかったんだ」
「……アメリカで一番、好きな場所になりそう」
「そいつはよかった」
 彼は夕日が沈む水平線を眺めた。その視線を追う。赤く染まった海岸は静やかだが騒々しく私を掻き乱す。美しさに絶句したり、身震いを起こしたり、心も体も忙しなくさせたのは紛れもなく目の前に広がる雄大な景色、そして、アルヴィン・ロックハートなの。きっと、世界中の誰もが私に花束を携えてここに連れてきたって、これほどまでに心は揺れないことでしょう。彼だからだ。隣にいるたったひとりを見つめる。青い海が夕日で染まるのによく似た目をしていた。アメリカで一番、いいえ、世界で一番好きな色だと思った。
 視界の端でカップルが近づく。日本では目を瞑りたくなる恋人同士の桃色な空気、私は息まで止めてしまおうかとあわてる。和の国の街中では見たことのない、いわば、その、接吻を海を挟んだ向こう側で見ることになるとは思わなくて、私の頬は赤らんだ。美男美女が互いに距離を縮めて、さあ、と固唾を飲んだその時だった。
「ナマエ、目を閉じて」
 アルヴィンの声がした。しかし、私はその言いつけ通りに行動する暇もなく、呆然としていた。私よりも厚くて柔らかであろう肉質を感じさせる唇が、同じ箇所に触れたから。視界はといえば、彼がいっぱいに占領していてもはや夕日のゆの字も見えやしない。半開きのままの口に吸い付く彼の唇が生き物のようで、私はやっとビクリと肩を驚かせた。アルヴィンはそれでも離れようとはせず、歯のない赤子が必死に母との縁を切らさまいと乳を吸う唇に、再度肩が跳ねた。彼は私の下唇を咀嚼した。彼がもつ立派な歯は隠されたまま。
 あのカップルはどうしているのかな。もしかしたら私たちを見て、はしたないとうわさしているのかもしれない。そんな危惧を片手武器に、身に余るほどの愛情がこぼれるのを防ごうとした。それでも、彼は私への愛を減らそうとはしなかった。触れ合った唇から瑞瑞滴る舌を取り出し、ごちそうさまの挨拶とばかりに私の唇をペロリと舐めたの。言っておきますが、この名字名前、十と数年生きてきて初めての接吻、いわばファーストキスというものでした。
 肩に置かれた手と、後頭部に預けられた手が離れる。とはいうものの、初めて与えられた恋人からのスキンシップ・オブ・ラブに私はそんなものを感じる余裕などなかった。今しがた気づいたばかりだ、彼の手が私のダーリンらしく振る舞っていたことに。私は、彼のハニーらしくできていたのかな。顔を離し、ようやく夕日の入り込む余地が出来たとアルヴィンを赤で縁取る。彼はその色通りに微笑んだ。
「いきなりすぎたかな。ナマエ、目を閉じてくれなかったから」
「だって、アルヴィン……!」
「ハハ、顔が真っ赤だぞ。夕日のせいか?」
「……そっちだって。夕日のせいなの?」
「クエスチョンに答えてくれよ」
「こういうの、不意打ちって言うんだもん。ずるいよ」
「フイウチ……もしかして、オレは褒められているのかい?」
「もう、アルヴィンったら」
 アルヴィンはいつもの爽やかな笑顔とは別に、いたずらに笑う。私もおかしく笑っていた。夕日のせい、だなんてよく言ったよね。目の前に好きな人がいて、初めてキスをして、それでいて普通でいられるはずがない。嬉しいって、幸せだって、そんな気持ちが身体を暴れているんだから。自分の中だけに隠しきれるものですか。
 子供のように歯を見せて笑っていたアルヴィンが、やがて眉を整える。彼の真剣な表情だ。私は、この生真面目な顔が好き。私を一途に想っていると書かれているから。
「ナマエ」
「うん?」
「……もう一度、キスしてもいいか?」
「そんなの……ダメなわけ、ないよ」
 大好きなその顔を見ていたいけれど、今度こそ目を閉じる。ゆっくりと近づいてくる鼓動を聴きながら、暗闇の中でアルヴィンを描いてみた。その黒いキャンバスに揺れる彼の眼差しは優しく穏やかだった。私の幻想でしょうか。ううん、それでもいいや。音もなく触れた温もりが「キミが大切なんだ」と囁いてくれたような気がしたから。
 近くにいたカップルがこんな私たちを見てどう思ったかって? もう、そんなことが頭に残っているはずがないでしょう。

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