中編

□void eternity 4
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 スクールライフに馴染んで、半年余りが過ぎた頃だった。ホストファミリーのもとに一通の手紙が届いた。エアメールというやつだ。両翼を大きく広げた鶴が真っ赤な太陽を包んだ、なんとも和風の封筒である。鶴は片足立ちで勇ましい。縦長のそれにもしばらく忘れていた目新しさがあったことでむず痒くなり、頂上をハサミでチョキンと容赦無く切った。
 ママはそんな私をまじまじと見ている。心配の色も浮かびながら、それでいて日本の風習に目を丸々に開いていた。意図せずとも出て来た行動に、体は覚えているものだと意表の裏をかかれた気分になってしまう。
 三つ折りたたまれた白い紙が現れ、開けばそれは便箋であった。辺りひしめくものはすべて横文字であるここにはひどく似合わないレイアウト。目を凝らしながら、下へと視線を滑らせ、やがて左隣へと移る。覗き込んで来たママは首を傾げた。
「なんて書いてあるの?」
「……うん。元気かってことと」
「ええ」
「日本に、帰ってこいってこと……」
 ママは目をパチリと一度瞬かせた。しかし、その無邪気な仕草は一時だけ。厚ぼたい瞼が下がって項垂れる。日本とは違う匂いで、違う壁紙の色がよく映える白みの肌。ふくよかな頬も落ちてしまいそうだった。ただ、私も見映えはせずとも、この温かな空気に馴染んだつもりではあった。
 私とはまるで違う。瞳の色も、髪の色も、声も、話す言葉も。同じものになろうとしていた私は、一晩かけたところで壁の足元にも這いよれない、改めてその高さを感じたの。ヨーロッパの国を二分する壁なんかより、遥かに大きくて険しい。
 ママはヨタヨタと私に手を伸ばした。白くて、大きな手だ。触るとブヨブヨの人間らしい温もりがあって。ああ、あったかいなあ。そう思った途端、その腕が私の頭を覆った。持っていた手紙がグシャリと紙くずになった。やっぱり、彼女は私の願いを叶えてくれる。私の味方なんだ。ポヨンとしたお腹に埋まる私の息。けれど、鼻だけはママを逃がさないと大好きな香りが掠めた。ママが近くにいる。ママだ。私はそれ以外に何を思ったわけではない。けれど、死んでも離すものか。そんな文句を体現するがごとくひっしと腕を回したのだ。それは半分にも満たない。
「ナマエ」
「なあに」声は少しだけ擦れた。
「あなたは、うちの子よ。ファミリーだわ」
「ママ……」
「遠く離れても、ナマエのことは決して忘れないわ」
 大きな手が頭を撫でて、私はまるでカンガルーの子供になる。母親がいつも隣にいる立場の彼女はどんなにいいことか。できることなら、ずっとこうしていたい。
 アメリカの民のようなことを考えてしまった。いっそ、この黒い髪も瞳も色を変えることができたなら。七夕の願いも初詣の神頼みもすべて捧げるからと、私は目を閉じる。それでもママは、黒い髪を愛おしそうに、そして大切そうに丸々と撫でていた。
 ママは呟く。「スクールの友達とも、お別れなのね……」と。そうだ、そうだった。彼女と離れるということは、スクールのクラスメイトと離れること。さらには、アルヴィンにも別れを告げなければならないのだ。
 気づいてしまうと、私の目からはポロポロと涙が溢れてくる。流れるようなものではない。雨によく似た、小さな雫がたくさん降るようなものだった。頬が濡れたことでようやく気づく。私は泣いているのか。すると、ママはさらに力を込めて私を包み込む。背中を優しくたたく。矛盾するように、悲しくなった。広い世界、日本もアメリカも引っくるめた青い惑星からただひとり暗闇に投げ出されたようだった。分厚い酸素入りの服もなく、着の身着のままで。悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ。昔の偉い人が言うことは間違ってなどいない。
 そうだ、私は前から素知らぬふりをしていた。アメリカの人間ではない私には、いつか別れがくる。日本を発つ時には、それを胸に秘めていたじゃないか。いつから他のことに埋もれてしまったのだろう。わかっていたことなのに。
「ママ、ママぁ……っ」
「ああ、よしよし。ナマエ。たくさん泣いていいんだよ」
「やだよ……。私、まだ、アメリカに、いたいのっ。いたいのっ」
「……そう思えるほど、アメリカには楽しいことがたくさんあったんだね」
「あったよ、あったから、もっともっとみんなと楽しいこと、してたいよっ……。どうして、帰らなきゃいけないの? ママ……」
「…………」
 私が言うことなど、ママからすればひどく理不尽なことかもしれない。しかし、私からすればそれこそ理不尽なこと。私はここにいたい。人種だなんて関係ない。平たい顔だろうが、黄色い肌だろうが、ましてや黒い瞳だろうが関係ない。私がここにいたいから、だから……いたい、のに。ママから離れ、俯いた瞬間だった。
 身体すべての力が指先に乗り移る。脳からの指令だかなんだか、そんなものは持ち主である私の許可も降りずして起こった。人差し指が手紙に噛み付く。続いて、勢いよく噛み砕いた。ビリッ、ビリッ。手紙が痛みを訴える。知ったことか、頬を伝うどころか落ちて絶えないこの涙に比べればマシでしょうに! こんなもの、こんなもの! 無しにしてしまえ! 無しになってしまえ! 髪を振り乱すことも厭わない私によって、手紙は八つ裂きの刑を受けることになる。でも、私の幸せを壊す、そんな悪い手紙だから。
「ナマエ!」ママの手が私を掴む。
「ママ……」
「ナマエ、よしよし。つらいね。つらいねえ、ナマエ」
 ママは私の頭を撫でた。いつもは豪快に撫で回すくせに、今日はいやにしおらしくて、私まで同調せざるを得なくなってしまう。彼女の鼻にかかる涙ぐんだ声が私を止めているの。−−そう思うことで、私はやっと黙ることに成功した。
 



 時が流れた。アルヴィンとは、以前のまま交際を続けていた。ただ一言、日本に帰ることを言えないまま。彼はいつでも私の手を引いて様々な場所を見せてくれた。小さな島国で生まれた私には、大層なことだった。アルヴィンと見た海、来たアクアリウム、そして、彼と駆け抜けた景色は間違いなく私の宝石箱に詰まっている。もう、溢れ出ないようにと鍵をかけることも、自分自身で決めたことだった。誰でもないのだ。自分で、だ。そうして、こうして、その日はやってきた。
 彼は私の肩を握って震えている。目に角を作り、その表情が喜怒哀楽のどなたなのかは何を見るより明らかで。私は、弁解やら言い訳の余地もなく俯いていた。穏やかなはずだった。彼は、穏やかな人であったはずだった。そんな彼でさえ憤慨させるのは紛れもなく狡賢く顔を隠す私。
 アルヴィンが、ふと正気の欠片を見つけたようで食って掴まれた肩の荷が降りる。悲しそうに目を細められたことが嫌でもわかった。
「ナマエ、どうして……。ジャパンに帰るなんて、今までこれっぽっちも話してくれなかったじゃないか!」
「ごめんね、アルヴィン」
「……こんなごめんねは、受け取りたくない」
「…………」
「……嘘だとは、言ってくれないのか?」
「ごめん、ね。アルヴィン」
 彼は俯いた。
 一等星が流れた動線のような金髪が囁いた。見るまでもなくこの心優しい彼は異国の人なのだと。水の上を走る巨大な豪華客船やら雄々しい鷲よりも頑丈な翼を誇る人工鳥類やらをもってしても、たかが一ミリお近づきになれるどころか遠退いていくのだと。醜い黒髪が自由の地に必要とされることはなかったのです。
「アルヴィンのこと、忘れないから」
「遠くにいるのにか?」
「そうだよ。アルヴィンが大好きだもの」
「この先、会えないかもしれないのにか?」
「それでも好き」
「どうして、そこまではっきり言えるんだ」
「私がアルヴィンを想う気持ちは本物だから」
「離れていても、気持ちはひとつってやつか」彼は哀しく微笑んだ。
「……アルヴィンは違うの?」
「そうだな、オレもナマエが好きだ。この気持ちは誰にどう言われても揺るがない自信がある」
 アルヴィン・ロックハートは、私の大切な人。彼のためなら例え火の中水の中、忠犬のように正座を崩さずして待ち焦がれることすらできる。この水平線果てない想いをきっと、世間では愛と呼ぶのでしょう。慎ましく待ちなさい。女性は清く正しく美しく強かに、意中のあなたを想うのです。何があっても、途切れることなく。
 彼は私に手を伸ばし、まるで自身の心臓を押さえるように胸へと招き入れた。私はこのまま動き続ける鼓動が調和してしまえばと地団駄を踏みたくなってしまう。いっそのこと、重なり合って溶け合えばいいのに。どうして私はアイスクリームのような他の味を受け入れる柔軟性をもっていないのでしょう。どうしてバニラアイスが抹茶アイスと手を取り合った途端に薄黄緑色へ進化する、あの術を知らないのでしょう。崇高な甘味へと進化を遂げた抹茶バニラアイス殿と重なろうものならば、べっちょりと服に垂れ流し、さらにそれを後ろ指差されて笑われることは目に見えている。
 それでも、彼を抱き返した。そう、奥ゆかしく生きる乙女の身の丈余る力で。アイスになれずとも、アイスになったつもりだ。アルヴィンの胸に額を擦り付け、必死に寵愛を強請った。
「好き。大好きだよ、アルヴィン……」
「ああ、オレもさ。ナマエ」
 まるで恋人のような会話だ。やがては逢瀬さえ、カリフォルニア空港の風と消えうるというのに。しかし、その風がいつしか日本に流れたのなら、私は胸の奥底、鍵のかかった宝石箱を愛おしく撫でるのでしょう。
 そして、きっといつかと呪文のように彼を夢に見る。ほら、十分ではありませんの。乙女が本来あるべき姿に還るだけ。やがて、やがてを心待ちにして一朝一夕を過ごす。永遠に変わらぬと誓いのような気持ちをもったまま。
 こうして、私の瞳は黒黒と彼を映し続ける。

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