中編

□void eternity 5
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 愛した第二の故郷とも呼ぶべき自由の地を飛び立った私は、狭く息苦しい飛行機での長旅を終えていた。賞賛を与えていただきたいもの。
 さて、私はもう片腕を空に捧げた自由の女神像様の支配下にありませんの。いわば、自由からの脱却による不自由が待っている。女神像様に背中を向けてしまった私に横たわる未来とはいかがなもの。今からすでに身震いがするほどに不愉快痛快でございます。
 あの地とは対照を成す秩序の街、私は慎ましく立っていた。
 ガラス張りの窓から白く手を広げた飛行機が飛び立つのを眺め、半年そこら昔の自分を重ねる。前から二番目の椅子に腰掛け、なんとも旅の余韻も感じられない娘。以前は最前列の椅子から立ち上がり、悠然と空駆ける天馬に馳せていたという栄光など、どこの馬骨野郎殿が信じるのだろう。
 羽田空港からお母さんが迎えに上がり、私は無事日本に帰ることができた。右を見ても左を見ても、私と同じ髪色しかいません。私は心に握った鍵穴を落とさずに空港を後にした。空港で振り返ると、その鍵を這い回って探してしまいそうだから。
 空港を出ると、同色のきっちりとしたスーツに身を包む働きアリのような集団行動が目に入る。海の向こうではいささか名物となっているらしいけれど、その魅力は横断歩道のスタートラインから赤色信号を睨んでいる人々の淀みに深く深く染み入り、やがてシミのごとく唾棄すべき存在へと変貌を遂げてしまう。
 さて、もしもここで私がか弱い乙女を繕ったとしましょう。顕微鏡でようやく見えるほどの傍方の石ころにつまづき「きゃっ」と渾身の甘い声をあげて倒れることを考えてください。ああ、こら、目も当てられない絵図でも目を背けてはなりません。
 その乙女と称すべき人型の物体をどんな目で見るのか。おそらく、妖怪かなにかかと見間違えられてしまう。
 一方の自由の国では、きっと金髪で青い瞳をした王子様が白馬から降りて駆けてきてくれるはず。髪は長く、一つにしていればなおのこと良い。
 この半年間で、大層に自虐が上手になったもの。嗄れた落ち葉が風に乗ってすれ違う。足元を掠めた北風に肩を震わせた。季節はすでに十月。秋を終えようとしていた。



 私は運悪く風邪の神様とお近づきになった。風邪の神様とはおそらくナスのような顎に、もやしを思わせるぼうぼうの白髭を生やした物腰柔らかなご老人に違いない。ついでに、神無月に出雲大社へ出向くことを放棄し、暢気な顔をしながら人と人の縁結びがごとく人と風邪の縁を結んでいくに違いない。トンデモナイ諸悪である。
 神様失格の烙印があれば彼に押しつけると目論んで違いない私は毛布に包まり震えている。決して風邪の猛威に体が屈したわけではない。怒りに震えているだけなのです。くしゃみを一つしてまた震えた。本当にトンデモナイ諸悪である。
 四畳半ほどの小さな部屋で顔の半分を白いマスクで覆っていた時だ。古びた戸が風邪のようにカタカタ震えたのちに開いた。
 姿を現したのは、同じく顔の半分を仰々しく覆ったお母さん。手に持つ皿からは湯気を拵えている。
「名前」
「はあい」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないよう」
「災難ね。帰国してすぐ風邪をひくなんて」
「ついてないなあ」
「野菜炒めを食べなさい。これで早く元気になるといいわね」
「ありがとう。野菜炒め好きなんだよね」
「ナスともやしよ」
 思わず顔を顰めた。
「ありがとう」
「それじゃ、食べたら寝なさいね」
「はあい」
 彼女が踵を返す。静かに戸が閉められるのを見送った。
 一口大に切られたナスを見る。これが私と風邪を赤い糸で結んだのだと穏やかな微笑みを携える老人を浮かべた。読者の皆様、見えますか。彼こそかの有名なトンデモナイ諸悪です。
 そうして冷たい毛布の中、遠い異国の彼のことを考えた。今はなにをしているのだろうとか、風邪の神様に目をつけられちゃいないだろうかとか。すると、携帯が来客を伝えるような身体の震えは止まった。代わりに頬が赤らんだ。この胸に宿る灯火こそ、風邪の神様だろうがなんだろうがにも屈しない英雄のごとし光に違いない。
 胸を掻き抱いて丸くなった。そうこうしているうちに、今度は睡眠の神様が私のもとに近づいてきた。世では睡魔と呼ぶあたり睡眠の魔王様と呼ぶ方が適しているのかもしれない。半身ほどが魔王様と謁見した頭で明日にも使えぬトリビアを悶々と考え、やがて睡眠の魔王様の手に落ちた。



 しおらしい話をする。日本の外交は滞っていた。愛国心に溢れたお国の傍若無人の外堀を埋め続けた結果らしい。私がまだ中学生の頃、当時の担任であった女性の先生は仰った。「人は鏡です。相手の方に笑って欲しいのなら、自分が笑いなさい。自分が笑わないのに、相手の方には笑えなど失礼極まりないことを考えている人間はド阿呆です」まさに人間の鏡、人智の鑑と私が称する彼女が言うこと。おそらく日本の政治家はそのド阿呆に入るということでしょう。それか腐れ外道。
 先生の教えを大事に抱え、私は六畳間の上に敷かれた座布団にチョコリと佇んでいた。付け加えるとテレビを眺めていた。整った顔の女性アナウンサーが眉を顰めて真っ赤なルージュをパクパクと動かす。私はしかめ面だった。当然だ、笑えばいいのに。美人が台無しだ。
 そのアナウンサーが伝えた。我が日本国がありもしない自由に現を抜かしたド阿呆を敵とするそうだ。なるほど、ド阿呆だなと彼女の斜め上を向く眉をしげしげ見つめる。
 テレビ画面には背をピンと伸ばした日本人の列が映る。矜持の権化と讃えられており、ものものしい面持ちだ。太い眉とギョロギョロとした瞳で、一心不乱に行進をしている。つまらない、笑えばいいのに。もっと心に余裕を! 諧謔を! 
 テレビ画面にあかんべえをしていれば、お母さんが肩肘を張ったような顔をして私の名前を呼んだ。べえを出したまま振り返ると、そのド阿呆面を笑うこともせず口を開く。
「留学したことは内緒にしましょう」
「別に気にしないよ」
「名前が気にせずとも、周りが気にするのよ」
「なんでまた。心が狭いなあ」
「風評はそういうものよ」
「風評かあ」
「そう、風評」
「ふうん。大人にはなりたくないなあ」
「どうしたの、突然」
「いや、前から思ってたよ。できることならずっと高校生のまま、夢を見て過ごしていたいな」
「そんな幻想みたいなこと言って」
「幻想なら風評もなにもないでしょ。ナスももやしも」
「名前の考えていることは難しいわ」
「うーん、熱があるのかも」
「それは大変。横になりなさいな」
「そうしようかな」
「あとで野菜炒めを作ってあげるわね」
 私は不意に寒気がした。
「ええ、なんか今はいらないかも」
「食欲もないのね。きっと熱だわ」
「キャベツと人参の野菜炒めならほしいな」
「名前、好き嫌いなんてあったかしら?」
「たったいま嫌いになっただけだよ」
 お母さんは訝しさを携えながら微笑む巧妙な芸当をし、台所へ消えて行った。
 再びテレビ画面へ目を戻すと、未だ変わらないユーモアの欠けた風景が映っており、他に笑えるものはないのかと思った。くだらない。躊躇いなくテレビのスイッチを切ると、その場で寝転んだ。
 遠い異国の彼は元気だろうか。冷たい座布団に収まりきらない身体を横たわらせて頭を過るはそんな他人事であった。しかし、それだけで私の頭はいやに穏やかになる。熱などないように思えるの。
 台所から小気味よい包丁の音が聞こえてくる。もう寝ろと囁く子守唄のようで、私はかけ布団もなしに目を閉じた。

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