中編

□void eternity 6
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 夜のことだった。季節外れのトマトを一切れ口に放り込む。乾ききった私の代わりにその子はつやつやとしていた。瑞々しさもあった。このべっぴんはお母さんが八百屋さんから連れてきたらしく、ちょうど売れ残りであった。
 とても売れ残るとは信じがたい美人なトマトは口の中を右へ左へ動き、青春の恋色にシャープペンすら握れなくなった男子高校生が求めてやまない意中の女性のようだった。どっちつかずで思わせぶりでそのうえ可愛い。意中のトマトを我が物にしたくなった私は歯を立てる。ジュプリと甘くも酸味の効いた味がした。これが恋の味かあ。私はシャープペンすら握れなくなるほど震えた。
 風邪の神様は私から離れようとしない。今もなお毛布に包まれ生まれたての子馬子鹿のごとくブルブルと震えていた。ついでに赤い恋の汁がついた歯がカチカチと鳴った。やはりナスともやしは嫌いだ。
 神無月は過ぎた。他の神様は誰と誰の縁を結ぼうか一晩中頭の毛が抜け落ちるほど悩みに悩み抜いているというのに、まだ人と風邪の縁を結び続けるサボリ魔ならぬサボリ神がここにいる。出雲大社の神様に告げ口してしまおうかしら。下界の民をナメないでいただきたい。
 いい加減、この万年床に伏せる生活にも飽きてきた。私はいつまでこうしていればいいのだろう。もしかして、ずっと永遠に? 運命の赤い糸で結ばれているの? あの諸悪の根源である風邪の神様と? いやだ! そんなこと、絶対にいや! 
 私は大きく震え上がった。そうして、トマトをもうひとつ口に放り込む。青春の味とやらはしなかった。当然です、風邪の神様と華燭の典などまっぴらごめんなんだから! 風邪などさっさと治してしまおう。
 そうと決まれば善は急げ、さすれば人を制し風邪をも制す。私はおとなしく寝そべった。口から血のように垂れるトマトの汁を吸血鬼さながらに吸い込み、ひたすらに神祓いを念じた。神を追い出そうとはバチが当たるかもしれないけれど、彼は神無月の出張すら放棄している。今更怯むことはない。
 そうして、床に伏せた私は熱い頭を沸した魔女の釜のようにぐるぐるとかき回した。出てきたのは不老の薬や万能薬ではない。アルヴィンだった。
 日本に帰ってきて二ヶ月が経とうとしているのに、彼は今の今も茹つ魔女の釜を自分一色に染め上げてしまう。その度に思います。我ながら女々しいなと。
 アルヴィンは私のことを覚えているのかな。彼は人気者なのだから、すでに新しい彼女がいるのかもしれない。彼の隣にいる金髪の、そうね、ツインテールでもしている女性を思い浮かべた。ああ、ダメダメ。こんなに離れた日本にいるというのに、見知らぬ女性に妬く権利など私にはない。これでは若さに妬く魔女と変わらなくなってしまう。
 寝てしまおう。今度こそ瞳を閉じると、私は身悶えして大きな咳をした。身体の中に居座っていた風邪の神様をも追い出す暴風が口から飛び出したのです。風邪の神様は、部屋で最後の大暴れをしてから、窓の外へ飛び出して巨大な竜巻となり、トマトが恋煩いをしている皿も子馬子鹿を包む母のような毛布も十一月の夜気をもぐるぐるとかき回した。
 特筆すべきことといえば、私がその竜巻の中で一緒に回っていたということくらいでしょう。何がなんだか皆目検討もつかないまま、風邪の神様は冥土の土産とばかりに私すら天空へと連れ去った。
 竜巻にさらわれながら、私は孔雀のように手をなるたけ広げバサバサと羽ばたいて見せた。世界孔雀求愛選手権たるものがあればすべての雌孔雀を虜にして世界一の座を我が物にしていることでしょう。必死に雄々しく、求愛のダンスを踊り続けた。
 やがて求愛というよりSOSサインに変わった羽ばたきは私の体力を極め、孔雀の羽根も鉛のように固く重くなってしまった。
 そうして、夜空を遊歩する竜巻に自分の身も運命も任せることに決めざるを得なくなったのです。切に願いました。小指に風邪の神様との運命の赤い糸が巻きついているのなら、この悶着に紛れて切れて下さいと。



 しばしの間、神様との回る空中散歩ののち、ついにあれほど憎んできた神様に見放され落ちた。やった! 赤い糸は切れた! そう思ったのも束の間。落下した先は池だった。およそ三人くらいが定員だろう、膝もつかぬほどの浅い濁り池に私は体育座りで着地した。
 襷のようにかかった藻を払い立ち上がると、池の周りには濁り水を塞きとめる白石が並んでいた。背はどれも膝ほど高さでどんぐりの背比べ、まさに整列をしている具合であった。
 池から足を引き抜くと、一本の通路が真っ直ぐと伸びていた。通路の両側には猫狸熊鼠牛龍羊、脈絡も質も問わずした金色に輝く像が並べられている。きれいにならした小石を踏み散らしながら歩いて行き、金箔に目がちらちらしたところで通路は終わった。
 その向こうは枯山水の庭になっていた。小石から砂に変わった足元を気にしながら縁側から宏壮な廊下へ踏み込んでいく。富豪でもいるのか、ここは。薄氷を踏むがごとくおそるおそる踏み出した一歩がキィと音を立てる。
 ここはどこだろう。一体全体の見当もつかない。むしろ風邪の神様の気まぐれで落とされた別世界ではないかと風邪にあえぐ頭が訴えていた。
 濡れた足元から広がる和風豪邸を抜き足差し足で忍んでいると、巨大な襖が目に入った。そこには、飛び出んばかりの眼をした赤鬼と青鬼がえがかれている。赤鬼の方はヒトの生首を持っており、思わず首を隠した。
 さらに、私の首をすくめたのは赤鬼と青鬼の襖が開いたことである。誰の手も借りずにスッと開いた襖はひどく不気味だ。奥を覗こうにも夜闇が邪魔をしてよく見えない。
 私は足をぶるぶる震わせて踵を返すこともできないでいる。しかし、ここがどこかもわからぬ以上、戻ろうが進もうが変わらない気がした。それなら進んだ方がいい。明々白々たる言葉に固唾を飲みながら、私は重い一歩を踏み出した。
 暗い闇へ忍び込み、阿鼻叫喚をもうコドモではないとぐっと堪え、べそを飲みこんだ。
 そうして、私は妖怪と対面した。
 妖怪は高価には見えない着物を着流しており、ナスのような顎に、もやしを思わせるぼうぼうの白髭を生やした物腰柔らかなご老人であった。どこかでお会いした気がしたけれど、このような奇妙な物怪は私の友人にはいません。
「あの、こんにちは」
「こんにちは」
「ここはどこでしょう。あなたはどなたですか」
 ご老人は髭を撫でた。
「私は神だよ」
 私は驚きのあまり目を丸くした。私の友人に自らこの世の自己顕示欲を一点に集めたような崇高を自称する者はいないのだから、このような人もいるのだと丸くした目をぱちくりと瞬かせた。
「疑っておるようだな」
「ええと、まあ」
「ならば教えよう」
 ご老人は福顔を崩さぬまま口を開いた。
「きみは小学生から高校生に至るまで成績優秀。体育を除くがね。初めて恋に落ちたのは中学時代の先輩。彼はバスケットボール部の長であり同級生に恋人がいた。他人の運命の赤い糸を切る黒い勇気はなく、彼を断腸の思いで泣く泣く諦めようとしたがそれでも諦めきれず恋人である彼女を模倣し一時は髪を結っていた」
 私の脳裏を遥か昔封印したはずの忌まわしき想い出が駆け巡り、繊細な心の奥底をガリガリと蝕んだ。むしろ噛み付いた。
 数年前、救いようのない薔薇色花畑の住人であった私は結った髪を指でいじりながらにへらにへらと想いを寄せていた先輩のことを考えていたものだ。いわば、薔薇色花畑では私自身が先輩の恋人であった。今すぐ薔薇色花畑を焼け野原にしてしまいたい。
 恥辱を受け、かさぶたをはがされるように古傷を見事に抉られた私はその心の痛みたるや「ひぃあああ」と叫びたくなったけれど、もうコドモではないとぐっと堪えた。
 一方のご老人は飄々と福顔のままであった。月に住む悪魔だと思った。
「私は神だよ」
「信じます! 信じますから!」
「縁結びの神だ。きみは今、異国に意中の男がいるのだね」
 これ以上の苦い思い出をほじくり返されては手術が必要になる傷ができあがってしまう。私は縁結びの神様殿のご機嫌を伺いながら首を縦に振り、その場に正座をした。
「だが、今やこの国は他の国と不仲であるよ」
「それが……なにか」
「思ったより賢くないのだなあ、きみは。意中の彼はこの国とは異なる文化やしきたりをもっている。ましてや、不仲である国同士の交際など飛んで戦火に入る夏の兵と変わらぬよ」
「私が彼を好くことは国家問題ほど規模の大きな話ではありません」
「……やはり、思ったより賢くないな」
 神は衿から瓢箪を取り出し、ごくごくと飲んだ。
「私事だが」
「はい」
「私は誰と誰の縁を結ぼうか日々一晩中どころか日夜問わず頭の毛が抜け落ちるほど悩みに悩み抜いているというのに、最近の若者は女であれば誰でもかまわぬだとか、男は星の数いるだとか私の熟慮による粋な赤い糸を切って切って切りまくり、あまつさえ男女の縁を味わっては捨て味わっては捨てるガムか何かと勘違いしている衆がべらぼうに多いのだよ。この行間が阿呆なきみに読めるかい」
「縁を大切にしろ、とのことでしょうか」
「そんな綺麗事を言うつもりはない。今は私事だからね。この世は確かに男女がおよそ半々に存在し、十人十色千人千色に顔も性格も地位も名声も異なる。だが、男女互いに理想と呼ばれる性癖まがいの汚い趣味に合致した相手を見つけ出し、さらには想いを通わせることなどできるだろうか。できるわけがないだろう。だというのに、性癖に見合う異性を探すモラトリアムを旅人の如し風情になぞらえ、さらにはこの目も当てられぬ旅人気取りの薄汚い若気の至りを体に滾らせてあちらこちらで薄汚い男女の食事会や茶会を開き、ついでに明日にはなくなる浅はかな関係で互いを慰める。まったく天晴よ。天照大神も見放す阿呆しかおらんのかね」
「はあ」
「便器に流れてしまえと何度思ったことか」
「はあ」
「しかし、この世はようくできている。結婚という形だけといえど男女の縁の終止符があるだろう。救われているなあ、諸君。つまり、男女妥協し合いこの薄汚い旅を終結させることができるのだよ。天晴!」
 頬が上気した神はよくしゃべった。
 そして、もう一飲みと瓢箪を逆さにした。
「きみも妥協ができるということだ。先輩でなくても異国の彼でなくても縁を結ぶことはできる。私は不仲の国同士の者が神からの好意に満ちた幸福を手にできるとは到底思えない。私の仕事を増やしてほしくはないのだよ」
「……ですが、私の彼への気持ちは本物です」
「ふむ、埒が明かないね」
 神は福顔を崩した。
 厚い瞼で隠れていた小さな瞳が薙刀で一閃を描いたように鋭く私を見ていた。
 神は私に瓢箪の口を向けた。すると、その小口のどこに隠れていたのかと疑いたくなる暴風が飛び出した。思わず蹲ると、暴風は過ぎ去ることなく私の周りで渦巻きさらに肥大化した。
 嫌な予感がします。
 案の定、瓢箪から出てきた暴風は襖の外へ飛び出して巨大な竜巻となり、金色に輝く像たちも枯山水の庭もぐるぐるとかき回した。
 特筆するまでもないでしょうが、私も相変わらずその竜巻の中で一緒に回っていた。何がなんだか皆目検討もつかないので検討することをやめ、宇宙人にさらわれるように抵抗なく天空へと連れ去られた。
 世界竜巻さらわれ選手権たるものがあればすべての竜巻マニアを出し抜いて世界一の座を我が物にしていることでしょう。
 そうして、再び夜空を遊歩する竜巻に自分の身も運命も任せることに決めざるを得なくなったのです。切に願うことは特にありません。

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